書くということ

書きたくなるときというより書かなくちゃ、と思ってる部分があります。書くことがおのれにとても大切なことであると考えてるからです。
特段に親しい人が別のパートナーがいたときにそちらではなくこちらに電話がかかってくるのがとてもうれしかったことがあります。その意味をとろうとすれば単純にいえば「こっちを振り向いてくれた!」なんすけど、その「こっちむいてくれてうれしい」の感情は執着でとても子供っぽいものです。そのおのれの子供っぽさは文字におこしたときにそれまであいまいだったものがあらためて明確に気がついたので、たとえたどたどしくても・表現技術が稚拙でも、文字にしなければ気にも止めなかったこと・気がつかなかったことを気づく作用が書くことにはあり、文字にして考えるということは脳内で考えることとはおそらく違うし、そのままあいまいにせず考えて、ちゃんと言葉にすることがおのれにとって大事だと実感できたのです。それらはきれいではない部分であるので書きたいことではありません。書きたくなることでもありません。ただ書かないとわからないことでした。自覚ができたので、万全ではありませんが対処法も考えられるようになりました。読む人が居る居ないは関係ありません。居たとしてもバカにされそうなことではあるのですが。書くことは恥をさらすことでもあるような気が。
草枕」の中に「詩人とは自分の死骸を自分で解剖して病状を天下に発表する義務がある」ってのと「蚊でもなんでも十七字にしてみるのがいい」というのがあるのですが、言葉にまとめるその効能は絶大であると思っています。書くことを続けてるのはそこらへんに理由があります。「草枕」を参考にしつつも、詩人でもなければ俳句も詠めないうえに元来のテキトーさが災いし、いくらがんばっても私が書く文章は美文にはなりませんが。