くだらない話を書きます。
なんどか繰り返し書いてることなのですが、私はwebで日本語で書き言葉で書かれてる文章でもその意味や意図が読めなかったことがありました。たとえば、最初に断定があって→断定があるがゆえに説明がなく→なので気が狂いそうになり→あ、ムリだ、と判断しめんどくさくなってその人の文章を途中から読まなくなったしフォローもしなくなった、ってことが過去にあったりしました。仕事ならともかく仕事でもないのにそこまでして読みたくなかった、というのもあります。本人には悪意がなくこちらも悪意がなく、単に気が狂いそうになったので読むのを止めたにすぎぬものの、あなたの文章を読んで気が狂いそうなので読むのを止めます、と正直にいったら厄介なことになりそうなのでそれはこっそりと、です。
話はいつものように横にすっ飛びます。
18日付の毎日夕刊に『<モームリの時代>』と題された中森明夫さんのコラムがあって論点は多岐にわたってて詳細は毎日新聞を読んでいただくとして、その中で「ムリ」というのはキモイよりカジュアルな生理的な嫌悪の表明ではあるものの関係遮断のマジックワードであるという指摘がありました。
おのれの経験でも冒頭に書いたように感覚的に「ムリ」からはじまる行動をしていてそれを棚に上げておくとしても、ここ数年世の中でカジュアルないいっぱなしの受け取る側にとっかかりを与えない悪意のない生理的嫌悪の表明が増えてるよな、という実感はあったりします。ので、異論はありません。
職場が「ムリ」と感じた人のためのモームリという退職代行会社の繁栄にはめんどくささの回避があるのではないかともコラムでは触れられているのですが、「あ、ムリ」という悪意のない生理的嫌悪やそれに付随するめんどくささにに直面した場合、以前はそれを感じた当事者が処理していたにもかかわらず、いまはそれを代行するシステムがあるわけで、ほんとは慶事なのかもしれません。
ただ、コラムの中では「ムリ」と云われたほうにも触れられているのですが、関係遮断の言葉ですから妥協点がそもそも存在しません。ので、云われたほうもいくらか悲劇です。かといって、「ムリ」を封印する・云わないほうがいいというのも、精神衛生上よろしくないわけで、コラムを読んで「ムリ」をどう扱えばいいのか、妥当な解が正直わからなくなっています。
くわえて、「ムリ」と思えるようなことはいつ起こるかどれほど起こるかわからなく、生理的嫌悪感の回避を優先したりめんどくささの回避を優先することが、はたして良いことなのかというとこれまた答えに詰まります。わたしの場合は冒頭の一件以降、複数いる「ムリ」な文章を書く人の文章を分析して書く上での参考というか反面教師にしたのですが、もちろんそれで免疫が付いたわけでもありません。いまだに読む気になりません。
コラムを読んで「ムリ」について改めて考えさせられたのですが、もっとも一介の(勤務先は4階の)サラリーマンがなにかしらのうまい解決策を見出せるわけでもないのでこのへんで。