間の悪いこと

東京地方は「今年に入って一番の雨になるであろう」というのを昨夜の段階で予報がでていて、「今年に入って一番の雨」というのがどれくらいすごいのか見当がつかなくて、でも最悪を考えてJRがどうなるかわからないので・残念ながらよく止まる沿線の住民なので、早めに起きて早めに出たほうが良いかな、と考えて行動していました。雨は強かったけど想定していた時間よりはやめに出社できてたので問題はなかったのですが。

ここ数年ゲリラ豪雨とかを含め大雨や天候不順が増えてきちまってる気がするものの専門家ではないのでわかりません。何年か前には晴れない日がずっと続いていて洗濯物が乾かず苦労したことがあって、(視力が悪いので自動車を持ってないので)徒歩で20分くらい歩かないとコインランドリーは無く、同じこと繰り返すとキツイなと考えて洗濯機の故障とともに乾燥機付きのものに買い換えてます。ただ乾燥機がなかなか静かではないので深夜はさすがに近所迷惑かなと考えて動かしていません。しかし洗濯物がまったく乾かない苦悩からは解放されて気が楽になってました。

でもって今朝、通勤時に乗ったバスの車中から眺めてて気がついたのですけど、それほど遠くないところに新しいコインランドリーが出来たのを発見しました。対策をとったらその必要がなくなる、という間の悪さなのですが、なんだろ、ばちあたりなことを書くと、間の悪いことを気まぐれに起こして人間を困らせる神様っているような気がしませんかね。ないかもですが。

「青春ブタ野郎はシスコンアイドルの夢を見ない」を読んで

上記の本は春先までMXでやっていた「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」というアニメの原作の一部です。土曜に通院先の病院の待ち時間や地下鉄の中などで読んでました。映像化したものを視聴して原作を読むという経験は飛ぶが如く以来かも。

でもってよくできた姉にあこがれつつも姉のようになれず比較され自らに劣等感を抱いて葛藤するアイドル(豊浜のどか)と、そのアイドルの妹を持つよくできた姉(桜島麻衣)が入れ替わるのがメインのお話です。いわゆるライトノベルズの範疇に入る話なのですが(ってライトノベルズがどういうものかを詳しくは知らぬものの)、なぜ登場人物が入れ替わったかについて一応は量子力学の話に則って謎解きとして最後にちらっと書かれてるところがわりと良心的です。ついでに書くと肝心かなめのストーリー展開は会話によって進められます。会話以外の説明文や描写は比較的控えめで、会話も饒舌ではありません。ありませんがその饒舌ではない会話が要所要所で鋭利な刃物のように登場人物をえぐります。えぐりますが悪意も裏表もなく不思議と後をひきません。というか余計なことを書くとなぜそうなってるのかの因果関係がはっきり描かれてるせいか「間違いを指摘しつつその間違いはやむを得ない」というような間違いをどこか肯定する空気が全編に流れてる気がしました。うう、書けば書くほどボールペンでビー玉をつつくように余計なことをしてる感があって、本の感想を書くのが苦手であることを自覚しちまうのですがって、てめえのことはともかく。

私は姉がいませんしよくできた姉なんて想像上の未知の世界の生き物でしかありません。よくできた姉を持つ劣等感のある妹の気持ちというのもやはり未知の世界なので(アニメ放送を視聴していたので)ストーリーは知ってても改めて興味深く読んでいました。 ネタバレしないように書くのが難しいのですが、(なんでもソツなくこなしてしまう人と言い換えても良いかもしれないのですが)よくできた姉というのは目標を前にするとなんとか克服してしまうことしか考えていない不器用な性格の裏返しの結果であるという描写は妙に説得力があり、また、他人との比較という行為や他人と比較され続けた結果としての他人に褒められたいという欲求がおきてそれらが人を歪ませるという描写も妙に納得してしまったところがあります。描かれた量子力学の現象はまず起きませんが、登場人物の姉妹に限らず、こういう人っているよなあ、わりとどこでも起こりうるのでは、と思って読んでいました。でもって登場人物が自力で答えを出したところで、事態は解決します。この、自力で答えを出す・なんとかするところがとても好ましく思えました。

以下、些細なくだらないことを書きます。

この本の主人公はよくできた姉とそれほどでもない妹の二人ですが、よくできた姉の恋人である梓川咲太も出てきます。その梓川咲太がシリーズを通しての主人公で、この本でも狂言回し的かつ重要な役回りを担います。で、恋人同士の二人の会話の中で「潜水艦ごっこが出来ない身体にするから」というのがありました。「男ならだれでもやってますって」とも書いてあるので、ああ女性にはない部位をつかうのだな…という推測がついたのですが、どういうものかはちゃんとは知らずにいました。念のため土曜の夜にメシを食いに来た相手に訊いて少し笑われて教えてもらってひとつ賢くなってます(これを読んでるよいこのみんなは誰かに聞いて賢くならなくてもたぶんいいです)。そういう遊びを思いつかなかった幼き日のおのれの頭の固さがちょっと悔しかったり。

「より後悔しないほうを選ぶ」ことの限界もしくは五目おこげの経験

目の前に選択肢があってなにかしらを決断するとき、人って迷うことがあります。名古屋駅新幹線ホームの弁当店には無難な幕の内のほかにヒレみそカツ重というステキな弁当があるのですが、困ったことにヒレみそカツ重にはゆで卵が乗っています。ゆで卵が相変わらず苦手なので無難な幕の内を選んでしまうと「名古屋へ来てみそカツを喰わないなんて」という「ある選択をしなかったことに関しての後悔」を意識しやすくなります。わたしは後悔は少なめのほうが良いので「好きなものを食べない後悔」より「嫌いなものを食べた後悔」のほうが小さいと考えて、幕の内とヒレみそカツ重があったらみそカツ重を買い、最初に苦手なゆで卵を食べてお茶で口腔内をきれいにして、ゆで卵など最初からなかったことにして改めてヒレみそカツを味わいます。みそカツにそもそもゆで卵が必要なのかという問題提起を小声でしていますが、賛同者がいません。ぜひ賛同してくださる方がいたらご連絡ください、ってヒレみそカツゆで卵問題は横に置いておくとして。

きっと繰り返し話してるかもしれぬのですが、複数の選択肢があるときに迷うことがあります。幕の内かみそカツか、好きなほうかそれほどでもないほうか、めんどくさい方向へいくか簡単な方向へ行くか、とかです。どちらかの選択肢を選択したとき、ついてまわるのが、「選択しなかった選択肢を選んだほうがよかったのではないか」という問いです。迷いというものの正体の何割かはたいていそれです。でも先が見通せる超能力者なら別として決断をするときには選択したほうが良いことの証明はしにくく、また選択しなかったほうの選択肢を仮に選択してからといってうまくいく保証は必ずしもあるわけでなく、そのことを考えはじめるとどっちにころんでも精神の安寧が訪れることはありません。不安は消えません。不安は消せません。問題がシビアであったり、大きければ大きいほど、それらを考えはじめるとどっちも水戸街道じゃねぇ…イバラギへの道…じゃねぇ…イバラの道に思えてきます。どっちも水戸街道ではないイバラの道ならば、ということでわたしは「後悔が少なめなほうがよい」で判断することが多いです。そのうち問題になるかもしれないことに直面したとき・問題に直面したとき、返り血を浴びるのは覚悟のうえで波風が立つのを承知でおのれの手で処理しちまうか波風を立てずに前任者と同じく見て見ぬふりをして先送りしてその職位の無難に全うするか、だったら常に必ず前者でした。「あのとき○○してれば」という後悔よりやって失敗した後悔のほうがマシなのではないか、というのがあるからです。失敗して見通しが甘かったことを恥じることになったとしても資料と「挑戦した」という経験だけは信用してくれた人信用してついてきてくれた人たちには残せると踏んでのことです。

いつものように話は素っ飛びます。

選択しなかった選択肢についてなんすが、好きなことを仕事にしてる人が世の中にはいます。そういう人を眺めて好きなことを仕事にする選択肢、つまり選択しなかったほうの選択肢をとったほうがよかったかのでは?ということについて社会に出て数年は考えることがなかったわけではありません。なお、好きなことを私は仕事にはしていません。まったく仕事は好きではありません。ただ仕事以外で好きなことをやると執着したり知識の量を追い求めてそれ以外が疎かになるので視野狭窄になることに気がついています。好きなことを仕事にしなかったことで視野狭窄にならずに業務を俯瞰しつつ距離を置くことができてます。そしていまの職にそれほど未練はありません。それらの間接的効果として、事前にできうる限りの準備をして問題を処理しようと決断をしたときに、失敗したら居場所がなくなるけどそれでもまあいいや、いざとなったらそのときは辞めよう、と決めてました。味醂も未練もないので要らぬ妥協をせず、結果として相応の抵抗があったので地獄の淵をちらっと見たものの辞めずに済み、要らぬ度胸もつきましたし得難い経験もしてます。好きなことを仕事にしていたら絶対経験できなかったことです。好きなことを仕事をしたほうがよかったのではないか、という迷いはいまは吹っ切れてます。

でもってある決断をした結果、起きてしまっていることに問題があるとき、目の前の事態から解法を探し出さなくちゃということを優先すべきで、「選択しなかった選択肢を選んだほうがよかったのではないか」という問いは選択した選択肢を否定するものですが、目の前の問題解決にちっとも解決に結びつかない思考です。ある決断をしたあとの「選択しなかった選択肢を選んだほうがよかったのではないか」というのはほんと意味のない問いかもしれない、と思うようになっていました。害にしかならないのでそういう考えが出てきたら意識的に気分転換して考えを遮断している期間が長かったです。

以上のことはつい最近までのことです。

以下、くだらないけど重要なことを書きます。

はてな今週のお題#「迷い」と「決断」

りっすん×はてなブログ特別お題キャンペーン〜りっすんブログコンテスト2019「迷い」と「決断」〜
Sponsored by イーアイデム

なのであれこれ書いてきたのですが、今月に入って中華料理店に行ったときに迷った末決断をして、炸醤麺を頼みました。けっこう好きで他の料理より後悔しないだろうと思ったのです。先に私の炸醤麺が来て少しのあいだおあずけ状態で同行者の料理が来るのを待っていました。同行者が頼んだのは五目おこげです。で、五目おこげが配膳され、おこげの上に五目餡がかけられ「じゅ、じゅじゅー」という音がしたときなんともおいしそうに思えちまい「あー、あれにすればよかった…」と本気で思いました(もちろん炸醤麺もおいしかったのですが)。ついでに書くともの欲しそうな顔をしていたのかトレードを持ちかけられてひと口分だけ分けて貰ってます。

でもって、炸醤麺という「より後悔しないほう」を選んだにもかかわらず五目おこげの登場で不意に「選択しなかった選択肢を選んだほうがよかったのではないか」ってのはでてきちまってます。長年生きるよすがとして頼っていた(と同時にベターな方法が思い浮かばないのでこの先も頼るつもりの)「より後悔しないほうを選ぶ」というおのれの処世術は五目おこげに勝てずに負けてます。もちろんなにが起きるかわからない(ので世の中だから面白い)と言えばそれで終わりなのですが、なんだろ、「迷い」と「決断」について他人にも役立ちそうな有益なことはやはりひとつもかけそうになかったり。

浦里

数日前に鬼平犯科帳に出てくる食べ物のことを書いたのですが、食べ物の話をちょっと引っ張ります。

おそらく池波正太郎先生が生きてらした頃には当たり前だったものの、いまとなってはよくわからないものがあったりします。たとえば桜めしです。桜でんぶのごはんかな、と一瞬想像したのですが、酒を呑んだ後に食べてるので甘いご飯は考えにくいです。本筋とはあまり関係ないので深くは考えずスルーしていたものの、しばらくして『鬼平犯科帳鬼平料理帳』(佐藤隆介編・文春文庫)という料理に関しての本を見つけ、その本には蛸の入った炊き込みご飯を桜めしといっていたことが述べられていました。しかし蛸と桜の関連性の詳細は不明なようで。

でもってその本に載っていたのが浦里です。もともとは吉原の遊女の人たちがこれはと思った客に朝に作って出していたという艶っぽいいわれのあるもので、種を抜いた梅干しをたたき、水気を切った大根おろしを載せ、醤油を垂らしてもみ海苔を載せるというものです。鬼平ではない別の作品中では大根おろしと叩き梅干は混ぜてそれにカツオ節と海苔を散らし醤油を垂らす、ともあるのですが、梅干しの酸味と大根おろしの辛みはあうのではないか、と思って試して以降、どちらもなんども作っています。炊き立てのご飯にもお粥にもあいますし焼き魚に添えてもいいし、やはり酒のアテにもなります。ひとりでないメシのときでも作ります。浦里は値段も高くないどこにでもありそうな材料で満足度が高いものができる点がすごいです。そして柿のみりんがけ同様に江戸時代の人の智恵に脱帽しちまうのですが。

地獄に至る質問(加筆あり)

何回か書いているのだけど、勤務先に一切女性に挨拶しない人が居て、その人は同性愛者かもしれないので気をつけて、というご注進を貰ったことがあります。念のため書いておくと私は同性が告白してきた少数の例外と気を許せる人を除いてセクシャリティに関しては誰にもいっていません(念のため書いておくと私は性的には少数派です)。好き勝手に噂するのを見て「めんどくせー」と痛感してて、より隠蔽の度合いは深くなっいます。

話がいつものように素っ飛びます。

プライバシーってなにか、っていったら典型例は「一般人の感覚として公開されたら不安を覚えそうな、私生活の事実(事実らしいと受け取られかねない場合を含む)など他人に知られたくない情報を秘密にする権利」です。わたしは秘密にしたいことがあるので、相当慎重に行動していますっててめえのことはともかく。

許諾があったとはいえ読売テレビの番組で行われていた性別がわからない人に対して恋人の有無やセクシュアリティについて公開の場で尋ねるという行為は誰に対してもやるべきではない性質のものです(プライバシーの観点からその質問をして困る人と困らない人がいるなら、困る人を考慮するのが妥当です)。この点、コメンテータが番組を批判したのもわかりますし、あとで読売テレビがプライバシーに関して声明を出したのも理解できます。

わたしのような多数派に属さないで同性の相手がいてセクシュアリティを隠し続けてる人間が、恋人の有無やセクシュアリティについて似たような質問を公開の場で受けた場合、自己の良心の呵責を横に置き嘘をついて否定できればいいのですがそれをやると相手が傷つき、かといって明確に答えないと、ずっと隠し続けてきたにもかかわらず事実上認めてしまったことと同じで、どっちへ行っても地獄に至る質問です。

報道の自由も理解できますし、放映した読売テレビには悪意がないと思いたいですが、公開の場の質問で少数派を痛めつけつつあぶりだす方法を今回の件は世の中に明らかにしちまいました。厄介なことをしてくれたな、とおもわないでもなかったり。

柿のみりんがけ

何回か書いていますが両親ともにすでに他界しています。母が死んだあとは絶対売るな捨てるなと厳命されていた日本戯曲全集の歌舞伎編20冊ほどのほかに鬼平犯科帳をそのまま手許に残してます。吉右衛門丈のファンだったかは聞きそこねたものの鬼平犯科帳はがん闘病中というか入院中や抗がん剤の通院の前の日などに買ってこいと云われていいつけどうりに渡したもので、残せと言われたわけではないけどなんとなく捨てられずにいました。いまはわたしが大きめの病院など時間がかかりそうな通院時に1冊本棚から抜き出してカバンの中に入れています。でもって病院で時代小説(などのよくできたフィクション)を読むとほんと余計なことを考えなくて済みます。病院で鬼平犯科帳を読んでからなぜ鬼平犯科帳を買わされてたのか理解できるようになりました。

そんなふうにして親を追うように病院で鬼平犯科帳を読んでます、で終わらせればよいのですが、バカにされそうなことを書いておくと、鬼平犯科帳は食べ物の描写が比較的あります。去秋に「おかね新五郎」という作品を読んでいたとき柿の味醂掛けというのがでてきて「これはしゃれたものだ」と平蔵がつぶやくシーンがありました。なんとなくやってみたくなり、味醂は常備してますから病院からの帰りがけに柿を買い、剥いて切って一切れにみりんを試しにかけてみるとケンカしない程度に甘味が増し確かに「しゃれたものだ」と思えました。さらに小皿に一切れを分けて味醂を掛けてから、読んでるはずなので親孝行になるかなと思って仏壇に供えてます。ほんとずいぶん遅れた親孝行になっちまったんすが。はてな今週のお題が「母の日」なのですが、母の日になにかをする、ということはしていません。でも今年も旬になったら柿のみりんがけをやるつもりです。

かすみ目

断定の口調というのはわりと印象に残ります。耳で聞いたならなおのこと。〇〇なのに××しないなんて、などと聞いたとき、そこにたいした理屈がなくても断定ゆえに印象に残ってしまうので、耳にした方はそうかな?となってしまいがちです。いちばん印象に残ってるのはフォルクスワーゲンのゴルフを見たら頭を10回たたくと良いことが起きる、それをしないなんて、というのが子供の頃にありました。迷信の類なのですが、なぜフォルクスワーゲンじゃないといけないのかが謎で、いまだにわかりません。が、当時はゴルフを見て頭を10回たたいたことがありますってそんな話をしたいわけではなくて。

耳学問というか耳で聞いた断定的口調でおしえられた知識に乱視は老眼にならない、というのがありました。理屈は知りません。私は乱視で、だもんで、老眼にはならないだろうなどと変な自信がありました。昨日までは、です。昨日、事務作業に没頭していたせいもあるのですが、午後遅くからけっこう数字や文字が読みにくいというかいくらかかすんでしまうことがありました。ああこれってもしかして老眼?と思ったのですが、耳学問の乱視は老眼にならない、というのがこびりついてていまいち自信は持てません。もうひとつ書くとおれはまだ若いはずだという妙な自信があってこれは疲れ目に違いないという仮の結論を出して、マツキヨで目薬を買って点眼しました。その点眼の効果があったのか、今日は昨日と同じくらいハードだったのですが文字や数字が読みにくい事態にならなかったのですが。

ただ耳できいたことはただしいとは限らないので(乱視でも老眼になるのかもしれず)、読みにくい事態が続くようなら老眼を考慮して眼科へ行くつもりです。老眼でなくても疲れ目でそういう症状が出るのかと考えると、ああそういうお年頃になってしまったのだな、という感慨もちょっとあったり。