なんだかよくわからないけど動けたからヨシ!

たぶんあちこちで体温を測ることがあると思うのですが、外出時に入ったお店で額で測る体温計で34度台ということがありました。お店の人は「壊れたのかな?」と訝しみ、もういちどやって34度台は変わらずで、機転を利かせて「いやこいつほんとはゾンビなので」と同行者が軽口叩いたら誰がゾンビやねんと突っ込む前に笑いをとれて高熱ではないのでそのまま入店することはできてます。ゾンビが低体温かどうかは知りません…ってゾンビの話をしたいわけではなくて私はわりと体温が低いことがあります。

ここのところ毎朝出社前に自主的に検温をしてて、今朝も体温計で35度台3分でした。熱はないのでいつものように電車に乗って勤務先に向かったのですが、途中九段下を過ぎたあたりでめまいがでてきました。一瞬、引き返そうかなと考えたのですが、午後に動かしにくい用を抱えていたのでそのまま出社して、体温が低いので風邪ではないと思いつつ、始業前に改源を投入して様子を見ていました。

以前つかえていた異性の上司が「最近な、気圧が低くなると調子が悪くなんねん」と、たまにこぼしていてそれを昼メシ前にふと思い出し、もしかして?と、気圧がわかるアプリを眺めると案の定、東京の気圧が注意レベルです。

体温の低さと気圧の低さを自覚し、ほんとのところはわからないけどダブルできたら不調にもなるわな、と理由をそれらのせいにしてしまうと不思議なもので気がいくらか楽になり、気圧は個人の力では何ともなりませんが体温上げるためにあたたかい紅茶を買って飲むといくらか改善し、午後を乗り切っています。

ほんとのところはわからなくてもなんらかの理由があると考え、動くと、動けてしまうことってないですかね、ないかもですが。こうかくと、なんだろ、なんだかよくわからないけど動いたからヨシ!と叫ぶ現場猫みたいですが。

でもって、できることなら気圧の変化も日々の天気予報で伝えてくれないかなあ、と気圧が低くなると調子悪くなることがあるのでつくづく思うのですが、ムリかなあ。

ぼっち考もしくは一人でいることの怖さ

「宇崎ちゃんは遊びたい」の最新回「桜井も遊びたい?」を録画したものを視聴しました。別にいちいちここで報告するほどではない気がするものの、なにも書かずに消去するのはなんだかもったいないので書きます。

前にも書いたかもしれませんが「宇崎ちゃんは遊びたい」は言い換えると桜井先輩の受難です。宇崎ちゃんになつかれた桜井先輩の下宿は宇崎ちゃんが持ってきた私物が転がるようになりますが、桜井先輩は雷を落として宇崎ちゃんを甘やかしません。逆に宇崎ちゃんも行動はウザいですが常に桜井先輩の前では敬語を崩さず後輩としてふるまいます。ただ敬語は崩さず、とは書いたものの、ことあるごとに友達が少ないことを揶揄して「ぼっち」と平気で煽ります。桜井先輩は「一言多いんだよ」とはいいますが、やはり突き放したりはしないです。桜井先輩すごいっす…って宇崎ちゃん口調で桜井先輩のよいところを書きたいわけではなくて。

詳細は原作かなんらかの方法でアニメをご覧いただきたいのですが、最新回では桜井先輩は1人カラオケをしてるところを宇崎ちゃんとバイト先の先輩に目撃されて乱入され、宇崎ちゃんにマラカスを持って笑われ、さすがに桜井先輩は借りてきた猫のように消沈します。また宇崎ちゃんは建前では「ぼっち」な桜井先輩と遊んであげてるスタンスで、裏返すと「ぼっち」は良いことではない、という考え方です。どってことないことかもしれませんが宇崎ちゃんの笑う姿を眺めながら、1人は恥ずかしいことでそれは笑われるし良いことではない、という、いまの世の中では当たり前のことかもしれないことをフィクションに載せた状態で見せられて、改めて知って、ちょっと怖いなと思った次第です。私は(歌舞伎座の幕見席は1人でよく行っていたものの)1人カラオケもしませんし1人ではありませんが、もしかしたらなんらかのきっかけで「ぼっち」になり得たかもしれないわけで。

話はいつものように横に素っ飛びます。去年読んでいた青ブタでは古賀朋絵という登場人物が出てきます。「孤独が嫌なのではなく、みんなの輪から外れてる自分を、みんなに見られるのが嫌」「どこかバカにされたように笑われることが、なによりも嫌」(「青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない」P110・鴨志田一電撃文庫2014)と古賀さんは考えるのですが、1人カラオケを笑う宇崎ちゃんを眺めながら違う物語である古賀さんの恐怖がすごくリアルに蘇ってきました。

話をもとに戻すと桜井先輩と宇崎ちゃんは上で述べたように先輩後輩ですから桜井先輩も正確には「ぼっち」ではありません。宇崎ちゃんにバカにされたように笑われてダメージはあってもリカバリ可能で、実際笑ったことに関してあとで宇崎ちゃんはさすがに(相応の)誠意をみせています。

桜井先輩の一人カラオケのエピソードを眺めていて、1人でいることの怖さは1人でいることの寂しさではなくて1人の状態を笑われることなのだな、と別の意味をそこから読み取ってしまっています。コメディなのでほんとは笑うところなのかもしれないのですが、なんだろ、喜劇と悲劇は紙一重かもしれなくて裏にある悲劇をちらっと見ちまった気がします。こういう感想を持ったのは少数派だと思いますが。

さて「宇崎ちゃんは遊びたい」は明日が最終回です。物語を通して浮き上がってくる小さな問題がちょっと興味深いせいもあって惰性で追っていましたが、胸にまつわる描写や演出がなんとなく苦手で正直、ここまで見続けるとは思ってませんでした。先週放送分はちょっと意味ありげな深刻な終わり方をしていて、どういう処理の仕方をするのかちょっと気になっています。できれば明るく喜劇で終わって欲しいところなんすけど。

キンメの煮つけのこと

両親が神奈川に眠っていて、海を眺めてから帰ることがあります。近いのが茅ヶ崎の海岸で、帰宅するまでがやはり長丁場になるのでおそいお昼も食べることもあります。

その茅ヶ崎で名物料理ってほどではないけど食べることができるのが(9月はまだ旬ではありませんが)、桑田さんの歌にもでてくる甘辛く煮たキンメです(キンメは相模湾でも釣れます)。美味しいとはなにかというとすごく難しいものの個人的には味付けの記憶と「それが良い」という理由なき勝手な思い込みが何割かあると思ってて、以前たべたことのある美味しいと思えた店が(厳しい状況だと想像するのですが)なんとか踏ん張っていて、ちょっとほっとしてます。記憶に残ってた食べ物を出していた店がこの半年いくつも消えてもう喰うことができないものが増えたので、「行けば喰うことができる」という店の存在は、しょっちゅう行けるところではないけどありがたかったり…って、てめえの舌の記憶は横に置いておくとして。

茅ヶ崎は観光地としては江の島や鎌倉ほど有名でないので

連休でも人は少なめ。波も静かだな、と油断していたら

ちょっと静かじゃないのがいきなり現れ

4秒後、足許まで来ちまってあわてて逃げました。

現場からは以上です。

新しいレンズを作るまでに負う小さな傷

限りなく言いがかりに近いことを書きます。

私は検眼が苦手です。裸眼のほか検眼用メガネをかけてレンズをとっかえひっかえしながら穴の開いている方向について「右、左、上、下」とかやってゆくわけですが、検眼表でランプのついているところを「右」と答えて実際は右であればその下へ行くのですが、右ではない場合、横の別のランプがつき「あ、間違ったんだな」と経験則でなんとなく気がつきます。経験則でって書いたのは左は比較的良くて右が絶望的に悪いので左の検眼の時にすんなり下へ下へ進むことに気がついて「ああそういうことか」と腑に落ちています。他にも以前「左斜め上」だと思って答えて冷たく「左斜め上はありません」といわれたことがあって、私にはそう見えたのでそう答えたのだけど、それらのことが重なって、検眼のシステムが正解あてゲームに思えて、なんだかストレスというかすごく苦手になっています。できることなら答えが当たっている場合のみ下へ下へ進むのではなく、当たってようと当たっていまいとランダムに進むようにして欲しいのです…ってそんなことにストレスを感じる私が変なのかもしれませんが。今週、コンタクトレンズを失くしてしまって今日新しい処方箋を貰いに眼科へ行ってて、検眼をして終わった後に知らないうちに苛立ってるのに気がついて眼科が悪いわけではないので、やはり器の小さい人間なのかも、と実感してます。

でもってその処方箋を持って眼鏡店に行ってます。

レンズのカーブと度数がいくらか特殊っぽくていつも在庫がなく入手するまで時間がかかります。もうずっとのことなのでそれは承知なのだけど、親切心かプロ意識としてか、それを申し訳なさそうに毎回丁寧に説明してくれるのです。それを聞きながら「あんたの眼球は規格外なのだ」と宣告されてる気がしてならず、毎回憂鬱を封印しながら「よろしくお願いします」と頭を下げてお店を出ることになります。今日もまたそうだったのですがお店の人が悪いわけでもなく、なんだろ、説明省略カード呈示で説明を省略できるシステムとかないかなあ、と内金を払いながら夢想してました。

注射とか点滴とか痛いことをするわけではないけど新しいコンタクトレンズを作るまでももろもろの作業が憂鬱かつ微妙にストレスで、コンタクトレンズを失くすたびに「やっちまった感」があって、レンズは2万円台なのですが、毎回2万円以上の見えない小さな傷を負ってる気がします。酒で流せぬ痛みはないとはいうので今日はあとで、迷惑かけない程度に・泥酔しない程度に見えない傷をアルコール消毒する予定です。

最近のごはんのお供(もしくは甘辛味噌のこと)

「食欲はすべてをいやす」というのがお世話になった(でも残念ながらガンでこの世にいない)消化器科の先生の持論です。あほうがく部卒で医学部卒ではないので真偽のほどは定かではないです。ただバカみたいなことを書くとどこかそれは正しいのではないか、と感じてしまうところがあります。「ごはんが食べれるか?食べれないか?」というのは私個人のメンタルにかなり左右しててたとえば食べ物を前にして箸が進まなくなると、「ああおれは元気がないのだ」というのを視覚的に思い知らされ、正直どんどん落ち込みます。食べると浮上するので、なのでなるべく食べるように心がけています。とはいうものの、いつ何時も食欲があるわけではありません。

今夏は8月はやはり暑くてバテていて食欲がなくなって、箸がとまることがありました。そういうときに最後の手段としてごはんに載せていたのが

力士みそです。そぼろ状の鶏肉に味噌や砂糖、にんにく、ごま油や七味が入っている甘辛系の味噌で、相撲部屋などで作られてるほかちゃんこ鍋店などにもあります。偶然、瓶詰の力士みそを京王で見かけて試しに購入してて、その偶然に今夏はかなり助けられました。ただ悲しいかな一時的な取り扱いだったのか、2つ目を手に入れることができていませんって私のことはともかく。はてな今週のお題が「ごはんのお供」ですが、たぶん酒にもあいます。

さて、おそらく関東だけかも知れぬのですが甘辛いものを「うまい」と表現することがあります。

味噌にみりんや砂糖、唐辛子が入ってて甘辛い、ので「うまみそ」。

甘辛い味がわりと好きで、秩父でうまみそのそば味噌をみつけて購入しています。だいぶ涼しくなって出番は減ると思うのですが、しばらくこれをいざというときのご飯の供にするつもりです。

「民衆暴力」を読んで(もしくは貧困の自己責任論の萌芽について)

私は怠惰な人間なので、仕事以外ではあまり予習はしません。行った土地で引っかかったことがあるとあとで調べることがあります。明治時代の武装蜂起である秩父事件について教科書には載っていたはずだけどどんなものかはちゃんと説明できないことに先月に秩父へ行ったときに気がついて、積ん読状態だった「民衆暴力」(藤野裕子中公新書2020)という本を引っ張り出して付け焼き刃で学習していました。

以下、恥を忍んで書きます。

本を読むまでは秩父地方は養蚕が盛んで(それが秩父銘仙につながるのですが)、欧州の生糸価格の値段が暴落すると養蚕農家は苦境に陥り武装蜂起につながるのかな?といった程度のかなり粗いテキトーな知識でした。なので、江戸時代とて飢饉や商品相場の暴落などで農民が苦境に陥ったことはあったはずなのですが、なぜ明治時代の秩父で先鋭化した武装蜂起が起きたのかがずっと謎でした。上記の本ではその点について詳細に語られています。

いわゆる質地受戻慣行、田畑を担保に借金をして約期までに返済できなかったとしても元本を弁済すれば取り戻せるシステムが江戸期にはあったこと、プラスして秩父独特の習慣として同じ村内の有力豪農が借金棒引きの代わりに抵当物件を取得する「片付」というシステムがあったことを述べていて、農民が破滅を迫られることをできうる限り避ける機能および借財整理を農村内で完結し農村部の共同体をなんとか維持する機能があったものの(恥を忍んでと書いたのはこれらのシステムを私は知らなかったからです)、明治期になってからはそれがなくなり高利貸しなど貸主が裁判所に申し立てれば容赦なく執行・整理が行われ土地を失う農民が増えたことなども述べられています。加えて西南の役の戦費調達のための不換紙幣増発の影響によりインフレとなったあと、意図的に増税や緊縮財政を行い市場に溢れる不換紙幣の回収を図るのですがそれらが世界的な不況下でも行われていたことも秩父事件の要因の一つとして指摘しています。詳細は上記の本を読んでいただくとして経緯だけ述べると、明治維新のあとに制度が変化したあとに意図的な経済のハードランディングを目指した結果、秩父で困窮する農民が増え、その状況下で高利貸等に対して借金返済の猶予の提案および内務省へ雑収税の減少を求めることなどを主眼として秩父困民党が結成されます。困民党は当初は個別交渉を重ねたり警察などに高利貸しへの説諭を要請しますが断られ、その後蜂起に至ります。残念ながら(…残念ながら?)秩父困民党は鎮圧されてしまいます。なお名誉のために書くと軍律を定め統制がとれた蜂起であったようです。

金利と税は人の生活を左右するどころか歴史を動かすよなあ、という脳の回転の遅いてめえの感想は横に置いておくとして、上記の本を読んでいて個人的に唸ってしまったのは、徒党を組んで訴願による仁政の要求もできず武装蜂起もできないその後の農村についても触れられている点です。秩父事件以降は関東の武相地域では経済危機を乗り越えるために節倹(節約倹約)と勤労を県が奨励していることを紹介しています。結論から言えば「働けともかく浪費はするな貧困に備えよ」で、具体的には「冠婚葬祭を簡素にせよ」「棟上げ式では餅まくな」といった内容で(後者は平成ひと桁くらいまで多摩の私の住んでいた街では皆無で棟上げ式で餅を蒔く習慣を私は社会人になって愛知に行ってはじめて知った)、つまるところ、個人の努力でなんとかしろ、と県はいってるわけで。このことについて上記の本では

しかし先述したように、松方デフレは、政策上作り出されたものであった。そこでの困窮は個人のささやかな努力で乗り越えるのは不可能である。にもかかわらず、このような節倹法によって、貧困の原因が個の生活態度のように還元されるようになる。

P95(「民衆暴力」藤野裕子中公新書2020)

とひどくまっとうな指摘をしてて、 貧困の自己責任論は今にはじまったわけではないのだな、と知りました。

なお、上記の書は秩父事件だけを扱ったわけではありません。ほかにも武相困民党、新政反対一揆、日比谷打ち壊し、関東大震災における朝鮮人虐殺などを(特に差別意識や義侠心、および報復の恐怖などが重なりあって起きた事件について丹念に)追っています。

上記の書はすごく読み応えのある本でした。と同時に一つの歴史的事象を別の観点から知ることで付随することがより立体的な理解になる…と書けば当たり前の月並みなことを改めて思い知った気が。

映画館のビール

くだらないことを書きます。

映画館でビールをたまに飲むことがあります。陽の出ているときに飲むビールは日光の下でなくても美味しいです…って書きたいことはそんなことではなくて。知ってる限りは映画館で売っているビールはサーバーから透明なプラスチックコップに注いでくれるのですけど、たいていギリギリというかなみなみとよく冷えたものを注いでくれます。ここのところ密にならぬように並ぶのは1人で、1人分なら零れぬようにちょっとだけ口をつけるのですが、今日は両手で2人分持っててどっちをとるかわからないので口をつけるわけにもいかず、途中まで冷たさを耐えながらそろりそろりと歩いていました。ビールを渡すと謝辞を述べてもらったものの、缶ビールだったら楽なのにとは思っちまいました(缶ビールじゃないのは上映中にプシュってやられるのは防ぐためだと思いますが)。

冷たいビールもそれを並々と注ぐことも悪いことではないし、密にならぬように代表者が買うこともわからないでもないのですが、なんだろ、結果的にぷち意地悪だよなあ、と。

今日行った映画館は豊洲のかなりでかいショッピングセンタに入ってて、そこはアーバンドックと副名称がついていて、アーバンドックってなんだろうと最初は不思議だったのですが

船渠(dock)の跡をそのまま残していて、小さな疑問は氷解しました。

あとバカにされそうなことをついでに書くと、巨大なショッピングセンタって微妙に疲れませんかね?もしかしたら微妙に体力が落ちてるのかも。