『小市民シリーズ』「伯林あげパンの謎」を視聴して

今夏放映されていた『小市民シリーズ』(原作・米澤穂信)を録画していて時間のあるときに視聴しています(≒つまり今夏余裕がなかった)。上記の「伯林あげパンの謎」もそのひとつで、こういうのはほんとは放送直後に書くべきなのかもしれなくて、放映後かなり経過してから書くのはいかがなものか?と思いつつ、面白かったです!で済ますのがもったいないので書きます。

いつものように不粋ないくばくかのネタバレをご容赦ください。伯林あげパンというのはベルリナー・プファンクーヘン(Berliner Pfannkuchen)というジャム入りの揚げパンで、本作ではその伯林揚げパンにジャムのほかにひとつだけマスタードを入れたロシアンルーレット的な遊びが小鳩くんの親友の堂島くんの居る新聞部内において行われていました。マスタードの入った伯林あげパン≒いわゆるアタリを引いたらその伯林あげパンに関する記事を書く、という約束だったのですが、誰一人としてアタリのパンを食べた人間が居らず、結果としては部内に誰も被害が生じてない平和な結末なのに事態は紛糾します。生徒指導室に呼び出されたとおぼしき泣き顔の小佐内さんとすれ違ったあと新聞部内の騒動に出くわした主人公の小鳩くんは行きがかり上質問を重ね、なぜそうなったのか?誰がマスタード入りの伯林あげパンを食べたのか?という謎を丁寧に解いてゆくのですが、このさきの詳細と真相はぜひ本作をご覧いただくか原作にあたっていただくとして。

ここから個人的なことを書くと、謎が解けた段階で思わず腹を抱えて大笑いしていました。手を止めて真剣に見入った時間を返せ!とまではならなかったものの、物語内にすべて伏線は隠されていて唸らされ、自省もあるのですけど「人は見たいようにしかものを見ない」という別の小説の主題を痛感させられています。そしてまだ未視聴なのが半分(5話分)残ってるのですが、残りも視聴するのが楽しみであったり。

さて、あげパンのことをクラプフェン(Krapfen)ともいったはずで、ベルリンだとそれがパンケーキを意味するプファンクーヘン(Pfannkuchen)になるのが不思議だなあ…とか気になるのですがそれは横に置いておくとして、そのあげパンにマーマレードが入ってたのなら食べたことがあるのです。もういっぺん食べたいなと思いつつ、でも肝心なのはそれがどの店であったかが思い出せず、おのれの記憶力のポンコツさがくやしいです。

カイゲン偉大なり

コンタクトレンズを小学生のころからしていて、手をきちんと洗わないと結膜炎になって痛いことになると教えられ、痛いのはイヤなので、そこらへんから手で顔などに触れる際などに手洗いを叩きこまれています。くわえて、持病というほどではないもののここ数年白血球赤血球の値が変で、コロナの第一波あたりから外出時や勤務時にはずっとマスクをしています。ので、ここ数年、新型コロナにも罹患せず副次的効果として風邪っぽい症状は年一回あるかないかでした。

ところが。

朝起きて、息を吸うと咳が出そうで出ないという状態になっていて倦怠感や熱等はないものの、これこじらせたらヤバいやつかな、というのだけはなんとなく察し、朝めしを食べた後に(個人的にいちばん効くと信じて買い置きのある)カイゲンを服用して出社してます。その後、咳が出そうで出ないという状態はおさまり、カイゲン偉大なり、と思わされています。さすがにもう夏ではないはずで夏風邪にはならないと思うので、カイゲンで治ったとしてもバカの証明にはならないと思いますが。

手洗いとマスクで防禦してるつもりだったのですが、完全防禦はなかなか難しいようで。関東はマイコプラズマ肺炎というのが流行してるというのは報道で知ってるので、いましばらく気をつけます。

柿16個問題

くだらない話を書きます。

漱石の『三四郎』の中に子規が樽柿というのを16個食べたという記述があります。樽柿というのは渋柿を酒樽に突っ込んで渋を抜いた柿のことで、三四郎を読んで以降はよほど好きであったのだろうと想像し

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

という有名な句について、法隆寺のそばで柿を喰いご満悦の子規のそばで鐘が鳴り柿の前では煩悩など消えていない状況を想起するようになりました。ここではてな今週のお題「秋の味覚」を引っ張ると旬なら16個くらいは柿って喰えるのかもなあ…などとつい最近まで想像していました。もちろんそんなに食べたことはありません。

話はいつものように横にすっ飛びます。

今夏『小市民シリーズ』というアニメを録画して視聴していました。原作にも手を出しているのですが、登場人物のひとりである小佐内さんは甘さが強めのケーキ屋でシフォンケーキとミルフィーユとパンナコッタ、ストロベリーショートにパンプキンプティング、さらにティラミスとベイクドチーズケーキを食べる描写があります(『春季限定いちごタルト事件』P155とP165とP166およびP168)・米澤穂信東京創元社・2004)。なにかしらのタルトも食したと思われるのですが、マルジョレーヌは諦めたとの記述もあります(P166)。それを読んで「ああ人は8個くらいならケーキは喰えるのか…」と要らぬ知識が増えています。

話を元に戻すと、小佐内さんのケーキの記述を読んで、人は柿を16個も一気に喰うのはムリなのでは?と考えるようになりました。もちろん小佐内さんは女子高生で正岡子規は成人男性という差はあるのですが。

くわえて、柿を複数個買い1回はそのまま食べたのですが2回目は絶対飽きるな…と考え(パンケーキに塗るように用意していた)サワークリームと(ドライカレー用に用意していた)レーズンと柿を和えています。その体験からも、同じ味のものを連続して喰えるのか?16個はムリじゃね?というのがないわけではありません。

もちろんほんとのところはわかりません。ただ16個連続で喰えそうな柿というのがこの世にあるのなら、(ついでに書くと8個くらい喰えそうなケーキ屋のケーキも)ちょっと食べてみたい気が。

『人間失格カステラサンド』

あまり褒められた行為ではないのは自覚してるのですがどちからというと「しなかった後悔よりしてしまった後悔のほうが良い」という思考になることがあります。ので、おとなのおもちゃでMAXが未経験だったのでついスイッチを入れ悶絶し…的なのもゼロではないのですが、経験だけは残るのでヨシ!としています。

JRの駅ではたまに東京以外の物産を集めた露店がでることがあるのですが

この週末、青森の工藤パンの『人間失格カステラサンド』というのを見つけています。ミルク風味クリームと書いてあるのでおそらくそれをサンドしたカステラなのはわかるのですが、問題はそれがどう『人間失格』と結びつくのかが初見では謎です。ほんとは別のものを買うつもりであったのですが、その謎がひっかかったのと面白そうなのであとで喰おうということになりました。

実食してみると、どちらかというとしっとりしてないカステラ生地に(つまりぱさぱさのカステラ生地に)うっすらとクリームが挟まっていて、そこそこ甘いものの変化もなくひたすら単調で、2等分したからよかったもののコーヒーもしくは紅茶がないと半分でも食べるのがキツく、そして喰いながら「これがどう人間失格と結びつくのか?」とか「こんなものに飛びつくミーハーな性格が人間失格だ!という戒めとか?」とか謎が深まっています。しなかった後悔よりマシとはいえ正直今回は「してしまった後悔」のほうが途中まで強かったです。

でもなんですが。

実食後、かなりの高カロリーであったのかしばらく腹が減りませんでした。そして『人間失格』には「空腹がどういう感覚であるかわからない」という告白があって(おそらく他人と感覚を共有できぬと感じていた作者太宰治の孤独感の痛切な叫びでもあるかもしれぬのですがそれはいまは横に置いておくとして)、カステラサンドを食べたゆえに登場人物に似た体験というか「空腹がわからない」状態に陥っていました。それに気がついて唸らされちまっています。当たってるかどうかはわかりませんが。

個人的には次に買うことはないです。とはいうものの、食前食中食後に太宰作品についてあれこれ考えさせられた点でトラップにものの見事に引っかかってしまったので、すごくうまいなあ、と。

「察してもらおう」について

去年の秋くらいに毎日新聞には歴史上の人物について現役医師が健康面から解説するコラムが連載されていて、カルテがあるわけではないので信憑性には疑問符がつくのですが、朝に時間がないにもかかわらずつい読み耽っていました。そのなかでかなり印象に残ったのが明智光秀で、肖像画を基に彼は近視だったのでは?という仮説を紹介していました。近視ゆえに表情をよみとることができずに察せずに信長の不興を買うことが多く、対して秀吉は光秀ほど目が悪いわけでは無かったので表情を読み取り察して機敏に気が利く対応ができたのでは?という趣旨であったのですが、しかしこの仮説の弱点は光秀が鉄砲の名手であったこととの整合性がつきません。

その記事が印象に残った理由は簡単で、私も察することは得意なほうではない上に乱視で目が極端に悪く、ああこの察するのが得意ではないのは目が悪いことにあるのか…と理由を見つけた気がしたからです。でもおそらくそれは錯覚です。

というのは。

「察する」というのは自分以外の「察しろ」という行為が無いとできません。個人的なことを書くと「察しろ」という行為を私はまずしません。簡単な話で、自力でなんとかできそうなことは自力でして、それでダメなら頼み事として口にしてしまうことが多いです。そもそも具体的指示なしに察しろなんて人間はエスパーじゃねえんだから…という意識があります。そんなのが他人の察しろに敏感になり得るはずがなく…って、書けば書くほどおのれがいかに人にやさしくないかについて書いてる気がするのですがそれは横に置いておくとして。

話はいつものように横にすっ飛びます。

3日付の毎日夕刊に先月までやっていた朝ドラの脚本家のインタビューがあって、その中に、男の子は不機嫌にしていれば誰かがケアしてもらえると考え「察してもらおう」となりがち、と書いてありました。私は異性と婚姻したことが無いし当然子が居ませんから育児とは無関係で、ので、その脚本家のその見解の妥当性を争う権利がありません。

ただその「察してもらおう」というのが子供時代に形成されるとして、その「察してもらおう」もしくは「察しろ」を大人になっても引きずる人はいて、それは子供から大人になれてない証左なのかな、と読んでいて思考が謎発展しています。しかしこれだと信長は子供を引きずった未熟な人間(で秀吉はそれを見抜いてお守りし光秀はそれを見抜けず大人だと思って対応し結果的に失敗した)ということになってしまいかねません。もちろん正解はわからないのですが、くりかえしますが実社会で大人でも不機嫌を隠さず察してもらうことを前提というか他人になにかを期待する人はやはりいて、いまのところの仮の解として、その脚本家の言葉がなにか重要なヒントを与えてくれた気がするのも事実であったりします。

なおその脚本家の場合、察してモードになったお子さんにはちゃんと言葉にするように、と伝えてるそうで。毒にも薬にもならない月並みなことを書くと、言語化って大切なのだなあ、と。

他にも、「なにかしら損を感じている中で自分が我慢しているのに他人がそうではないと感じ叩きやすい相手に怒りをぶつけるようになってる」とか興味深いトピックがあったのですが、長くなりそうなのでこのへんで。

ゆっくり秋になってほしかった

どうでもよいことを書きます。

アドバイスを貰ってずいぶん前にスマホに頭痛ーるという気圧の変化がわかるアプリをいれました。調子が悪いな…とおもったときにアプリで確認するとばっちり気圧が低下していることがあったのですが、不思議なのは気圧低下時でも常に調子が悪くなるとは限らない点です。人間は気圧計ではないといってしまえばそれまでですが。

午後になってから業務はこなしつつもいくらか調子が悪くなってきて、しかしアプリで確認しても警戒レベルではありませんでした。退勤時にいつもだったら駅では階段を使うのですが今日はそのファイトすらなくエスカレータを頼る始末です。もしかして風邪かな?と疑って帰宅して体温を測ると36度1分で平熱です。こうなってくると考えられるのは今日は昨日に比べてかなり涼しかった(なお夜8時半で22度な)ので寒暖差からくるものなあ、と。

暑いのヤダヤダとかいってたので涼しくなるのはありがたいのですが、急だと身体が付いていけない感があります。天気に文句をつけても仕方ないのですが、なんかこう、ゆっくり秋になってほしかった感が。

今秋の愚行

いつものようにくだらないことを書きます。

通勤に使うJRの駅に錦秋湖などの紅葉と一緒に「秋は短し旅せよ岩手」というキャッチフレーズのポスターが掲示されています。東京の最高気温は今日は26度ですが明日は31度予想で週末も30度近い日々が続く予想で10月といえどもまだ夏の名残があるといって差し支えなく、くわえてここ何年かの猛暑と長めの残暑の経験から「秋は短し」というのはわりと腑に落ちる言葉であったりします。

はてな今週のお題「ちょっとした夢」を引っ張ると、あてのない希望みたいなものとしてはポスターを眺めて数秒は「どこか行くなら岩手もいいな…」となっちまってます。しかし埋まってしまってるスケジュールを眺めると「旅せよ岩手」といわれても岩手は気軽に行ける距離でもないので断念せざるを得ないです。

ただ「秋は短し」が腑に落ちてたので「まあせめてその短い秋の間に秋っぽいものを喰いたいよなあ…」という気にはなり、ので週末にサンマが1尾248円だったので焼いて大根おろしを添えて食べています。物価高騰の折りに贅沢は敵だ的な考え方からすると以前よりかなり高いサンマはどう考えても愚行なのですが、旬の食べ物を喰うことは健康的で文化的な生活に最低限度必要なこと、ということにして愚行を肯定しています。たまの贅沢は敵ではなく素敵です。

サンマを制覇したので次は栗かな…などと考えてはいて、個人的に贔屓にしているお店でそのうちモンブランを…と目論んでいます。ので、この短い秋のうちに荻窪のルミネの地下でモンブランを二つ買かって慎重に歩くくたびれた中年を見かけましたら生暖かい目で見守っていただき面白半分でドロップキックなどをかまさぬよう伏してお願い申し上げます。