地下鉄内のうたた寝

朝はやめに起き、いくらかはやめに出社する日々が続いています。さすがにウトウトしたことはありませんし大ポカはしませんが冬になるにつれ昼飯をとってからしばらく経ったあたりが自覚できる程度にいくらかデンジャラスな時間帯です。くだらないことを書くと、ブラタモリが木曜夜にやっていた頃に上野動物園をとりあげたことがあり冬眠用の施設を作る前は秋にたらふく食べたあと熊は眠りはしなかったけどボーっとしていた、という説明が記憶の隅にあって、人を含む哺乳類って冬は眠くなるものなのでは?とずっと思っていますって、このままこの調子で書いたらてめえは獣とおなじゃねえか、ってことになってしまうのですが。冬の退勤時の地下鉄はデンジャラスゾーンで、乗って途中で座れると眠くなりついウトウトしちまうことがあるので、やはり獣と同類かもしれませんって、獣の証明をしたかったわけではなくて。

起きてるときは人の意思で身体を制御できますが、寝てるときはそうはいきません。最近読んだcitrusというマンガの中で登場人物が冬の電車の中でついウトウトしてしまい口を開けてよだれをたらすシーンがあってそのときは、あるある、でもマスクをすればいいのに、と読んでて思いました。退勤時に地下鉄で途中駅で座れてマスクを持参してなかったので眠るつもりもなかったのだけど眠ってしまい終点で目がさめたとき、citrusのそのシーンが頭をよぎりました。あちらはギャル系女子高生ですから眠りながらよだれをたらす姿も絵になりますがこちらはいくらかくたびれたおっさんですからそうはなりません。あわてて手を口に持って行ったのですが、さすがによだれは出ていなくてホッとしてます。でもうたたねはやっちまいかねないので、明日からカバンの中にマスクを忍ばせるつもりです。

脳内の土井先生

きのう何食べた?」というマンガがあるのは知りつつもほぼスルーしていてドラマもも視聴するつもりはなかったのですが、でも参考にしようとしてちらっと一度だけ夏前に録画しました。努力する前に努力することを放棄しているようでアレなのですが、一度だけ見てそっと消して、参考にしてはいません。録画した「きのう何食べた」の回の場合、ごはんを炊き込みご飯にしてて4品で、白いご飯を炊き込みご飯にするだけでも「手のこんだ」感があって、真似できないと思いつつでも考えさせられてて、ずっと印象に残ってます。

土井先生が「一汁一菜でいい」ということを提唱されてることは知ってるのですが、厳密な一汁一菜ではないけど、実家はそれに近かったです。実家は必ずしも裕福でないほうだったので、だいたい夕飯は魚か肉かの主菜にそれに野菜(もしくは豆腐)主体の副菜で、主菜が冷たかったら副菜は温かいもの、主菜が温かいものなら副菜は冷たいもの、主催と副菜がともに冷たいものだったら汁ものプラスして、主催と副菜が温かいものだったらごま豆腐やお浸しなどをプラス、という具合の献立で、皿数は多くありませんでした。私はひとりの夕食のときも・ひとりでない夕食のときも、ほぼそれをそのまま踏襲しています。喰わす相手が居ても特に品数が少ないといわれたことはありません。ほかにどういう考えによって献立を考えればいいのかわかりません。ただ、私は献立などでちゃんとした教育を受けているわけではないのでどこか発想が貧困です。

週末の一人ではない夕めしのとき(知らないほうが幸せだったかもしれない味のひとつである)シシャモのオスが小田急で手に入ったのでそれを焼き、シシャモには豚汁だよなあと考えて豚汁を作り、それにカニカマと水菜のお浸しを作ったのですが、つい「きのう何食べた」を作りながら思い出してしまい、このメニューにあう炊き込みご飯ってなんだろうとか、これに手の込んだ料理感のあるもう一品を作るとしたらなんだろうとか、と味噌を溶かしながら考えつつも発想が貧困なので思い浮かびませんでした。

その時、私の脳内で土井先生が「一汁一菜でいい」とささやいたのですが、都合のいいときだけ土井先生を引っぱり出してる気がしないでもなかったり。

怖くない賢治先生

匿名を奇貨としてバカにされそうなことを書きます。宮沢賢治の「注文の多い料理店」を読んだのは中学の頃だったはずなのですが、失敗した2人をあざ笑うよう物語にも思える「料理店」って何が言いたかったのか、というのはわかっていませんでした。もちろん今でもわかっていません。だいぶ経ってからあの話は、文字や言葉にむやみに従うととんでもないことになるよ、という警告なのかな、という仮説を立てています。幸か不幸か文学部にも行かずあほうがく部をでたので「注文の多い料理店の意味について書きなさい」というテストに出会わず正解を知らずに社会人になっています。私にとって「料理店」は難解です。匿名を奇貨としてバカにされそうなことを続けて書くと有名な「雨ニモ負ケズ」の詩も知っていますが、私が正しそうなことに対して懐疑的であるせいもあるのですが、宮沢賢治という人がよくわからず正しそうなことを云い切ってしまうことに得体のしれない怖さを持っていました。匿名を奇貨としてもうちょっとくだらないことを書きます。死んだ親の片方の実家は日蓮宗の、国柱会という宗派の熱心な信者の家でした。国柱会の信者に宮沢賢治が居ます。幸いなことに血縁に宮沢賢治のような人は居ませんでしたが、宮沢賢治の作品をいくつか読んでから日蓮宗になんとなく近寄りがたく、日蓮宗については勤行次第は別として教義に深くは知らないままいまに至ります。

17日の毎日新聞に「日蓮主義とは何だったのか」という本の書評が載っていました。帰宅してからなんとなく目を通しています。国柱会の設立者である田中智学についても触れられてて、田中智学は宗教が国家に受動的に従うのではなく日蓮の理念を国家に原理として採用させる日蓮主義を打ち立てた人として紹介していて、ここらへんはさすがに承知していたのですが、思想としてはその智学の打ち立てた日蓮主義が「現実の日本」を「在るべき理想の日本」の理念によって否定する方向へ変化していった、という目からうろこの興味深い事実を実はこの書評ではじめて知りました。影響を受け行動した実例として挙げられてるのが二・二六事件の思想的黒幕と云われた日蓮主義者だった北一輝であり、宮沢賢治です。思い当たるふしはあって理想を抱いてた宮沢賢治は花巻で農地改良の相談にも乗りますし酸性土壌改良のため陸中松川石灰石の拡販に乗り出しています。あるべき理想の日本へたしかに地道に動いていたわけで。

いつになるかわからないけど時間ができたら「日蓮主義はなんだったのか」を読む予定ですがもちろんまだ読んでいません。生半可な知識で書くのはまずいかなあとおもいつつ、書きます。「注文の多い料理店」の現実にあるものをそのまま受け入れてしまうことで悲劇を招くストーリーを考えると、あの物語の意図することは、現実は否定すべきものってことなのかなあ、という気がしてならず、「雨ニモ負ケズ」の詩は現実を否定した上での信仰に根差した在るべき理想なのだろうな、という理解に至っています。なんだろ、読んでから30年弱を経て、宮沢賢治という人が思想的バックボーンを含めうっすらと理解できて、怖くなくなって来た気が。

炒飯の腕

えばれた話ではありませんが私は卵が苦手です。卵を全力で避けてきた人生で、いまでこそ天津飯やデミグラのかかったオムライスは喰えますが、天津飯やオムライスは作ろうとも思わないし実際にほぼ作れません(だし巻き卵だけは経験あるけど自信はない)。世の中に炒飯というものがあることは当然小さいころから知ってはいて、あの中にはあたりまえのように卵が入ってることが多いのですが、天津飯同様外で食べたりはしても自作しようという気はあまりありませんでした。なんとかなるのは豚キムチベースのものだった時期が長く、卵が苦手ゆえに卵の火加減ってのがいまいちよくわかりませんからシンプルな炒飯を作っても喰えないことはないけど自分以外の誰かに作るレベルではない程度にあんまり美味しくはできませんでした。手順そのものは難しくないはずだしちゃんと覚えとくか、とたまにチャレンジしはじめたのですが、そうは問屋が卸さなかったというか、なかなか納得のいくレベルになりません。

なんでだろ、と考えてるうちに、たぶん都市伝説のようなものだと思うのだけど「焦げ目というのはがんになる」というのを聞いて育ってて・がんで親を亡くしてるのとがんの家系ということもあってできることならなるべく避けたいという焦げ目に対する抵抗感があり、またせっかちな性分なので、火を本来より通してないのかもしれない、という仮説に至りました。試しに意図的にせっかちを封印してやってみるとどうもビンゴだったようで、以降、なるべくせっかちにならぬように・しっかり焼き炒めるようにしています(最後に醤油などの調味料とともにお湯を少し加えてふっくらさせてます)。最近ではなくて数年前のことなのですが。

はてな今週のお題が「〇〇の成長」なのですが、炒飯では説得力ナッシングかもしれませんが、おのれの腕が以前よりちょっと成長したな、というのが(それが舌でわかるものだとしても)実感できると嬉しいってことないですかね、ないかもですが。

citrus「Whereabouts of love」

citrusというアニメを途中から視聴して最後まで見て、そのあと後日談が知りたくなって原作に手を出していることを先日書いた記憶があります。義理の姉妹になった性格の異なる女子高生2人(姉の藍原柚子、妹の藍原芽衣)が主人公のラブストーリーです。

 

gustav5.hatenablog.com

 

それを40半ばのおっさんが(こっそり)覗き見するように読んでいるのですからとてもキモチワルイことこの上ないと思います。

マンガなので読むことじたいはたいして時間がかからないので6巻以降も時間があるときに(こっそり)読み進めていました。以前はわりと沈着冷静であった妹が自らの変化に戸惑いながらも姉に対してたとえば歯形をつける程度にいくらか積極的になり、相変わらず向こう見ずな姉も戸惑いながらも積極性を受け入れようとします(詳しくは原作をお読みください)。はたからみると姉妹ではなく初々しい恋人同士のような関係に変化するのですが(詳しくは原作をお読みください)、妹が姉のためにある決断をし、それを姉も咎めません。ネタバレにならぬように書くのが難しいのですが、夜更けにそのくだりを読んだくたびれたおっさんがcitrusの単行本を片手に

「…マジ?」

と動揺してます。to be continuedって書いてあったのを幸いに、翌日残業ののち退勤後に本屋へ直行して帰宅してさっさと雑事を片付けて、続きを(こっそり)読んで、マンガなので「ちょっと…」という展開なのですが、でもハッピーエンドで終わったので胸をなでおろしています(love forever)。てか、(青ブタもそうだったのですがあれは小説で)マンガで「続きを読ませてくれ」と思ったのはかなり珍しい経験でした。

ちょっと変なことを書きます。中華料理店でじゃじゃ麺を食べたかったのですが炸醤麺がメニューには載ってないことがありました。諦めようとしたら彼氏がウエイトレスさんに「炸醤麺じゃじゃ麺)、作れますか?」と尋ね、ウエイトレスさんがキッチンへ行き、オッケイが出たことがあります。私にはない発想と行動だったので素直に礼を述べたことがあります。愚者は経験から学ぶといいますが愚者のその経験から自分にないものが相手にあると惹かれることってあると思ってるのですが、義理の姉妹という関係で性格が異なるゆえに自分にないものを持っている姉に惹かれる妹の気持ちってのが途中から読んでるのですがよく理解できました。また特にシリーズ後半になるにつれ心理描写が濃くなり、度数の高いアルコールをのんでるような感覚にもなっています。

女性同士の恋愛のアニメと漫画を読んだのは初めての経験なのですが、てめえのことを棚に上げていうと、フィクションとはいえ相手の性別を意識せず恋に落ちたり惹かれあったりすることはやはりあってもおかしくないよなあ、という感想を抱いています。

まだ最初のほうを読んでいないのですが、そのうち読むつもりです。

隼人発声

いまの上皇陛下が天皇時代にがんの治療のための通院から戻る道中、冬でも窓を全開にして手を振ってるのを目撃して、(死んだ母親ががんであったので多少の知識があって)いまやってるはずなのはホルモン療法だから白血球が減少して風邪をひきやすくなるわけではない、と知りつつも、誰か止めなよ、真冬に自動車の窓を開けなくてもいい市井のがん患者と同じにしてあげなよ、という感想を抱いています。以降、冬の日に病院の通院時であっても天皇は窓を開けて手を振るのがあたりまえであるという空気がこの国にあるとしたら、天皇制というのは人を人として扱えない制度だよなあ、という考えを持つようになっています。天皇制打倒とかそんなことは考えていません。が、慶事とされてる儀式のダイジェストを眺めながら慶事とはなんとなく思えず、新天皇が万一病を得たら市井の病人と同じ扱いができるように社会が変わればいいな、などと世が世なら不敬罪になりかねないことを考えていました。

話はいつものように素っ飛びます。

「歴史を紀行する」という司馬遼太郎さんの紀行文があります。取り上げられてるのは土佐や加賀、三河、薩摩、会津、近江などですが、その本を読んで興味深かったのが薩摩の隼人と云われる人たちの存在です。日本書紀の頃から薩摩に居た隼人は反乱を起こしているものの、その隼人がいったいどういう人たちなのかがすくなくとも昭和の司馬さんが執筆していた当時は判っていないらしく(不勉強なので私も良くは知らないのですが)、風俗も異なれば種族も異なっていた、とされています。すこし謎なのです。

謎ついでに書くと不思議なのは武勇をたたえられ敵ながらあっぱれということなのか後世になって「隼人」や「薩摩隼人」という言葉が(関ケ原で壮絶な退却戦をしたからもあるかもしれないものの)薩摩藩の武士に対しての美称や、いまでも良い意味での鹿児島の男に対してつかわれるようになっているところです。おそらく一地方の男を指しての美称は隼人・薩摩隼人だけだとおもわれます。一地方の男を指す言葉に他に東男というのがありますが、こちらは粗野で田舎者的な蔑称っぽいところがないわけではありませんって話がズレたので話を戻します。

でもって宮中の儀式で隼人が関係してる不思議さも司馬さんは述べています。孝明帝即位のあとの大嘗祭の式次に「隼人発声」というのがあり、朝廷の役人を隼人に見立て裸同然の格好をさせて、吠声と呼ばれる犬の鳴き声に似た声を出させていたのだそうで。東博で展示されていたいまから800年前の伏見帝のときの大嘗の図面にも隼人の立ち位置が載っていましたから、どうも長い歴史のようで。

世が世なら不敬罪になりそうなことを重ねて書くと門外漢には奇怪というか不思議に思える式次を知ってしまったいま、いまでも隼人発声ってやるのか・それがどんなものなのか、とか、慶事慶事と思えなくなってきてるので野次馬的に大嘗祭がなんとなく気になっています。テレビでそんなことはやらないだろうし、知ったところでこの先の人生の役に立ちはしないのですが、なんだろ、不思議に思える役に立たないことほど惹かれることってないっすかね、ないかもですが。

安い満足

天気のことについて述べてもどうしようもないのだけど、先月はそこそこ残暑があったのですが11月に入ってからかなり涼しくなってきました。涼しいというより朝晩はそこそこ冷え込んでいます。っていっても、北の大地から比べたら鼻で笑われそうな程度ですが。

一汁一菜ということばを知っていてその汁が味噌汁と理解しつつも、でも遅く帰った夜などに冷え込んでいるとあんまり気力がないときはやはりあって、そういうときに冷え込んでて湯気が欲しいと、椀にかつお節ととろろ昆布を入れ、そこに沸かしたお湯をそそぎ、さらに醤油を少し垂らす、ということをします。ものっそ単純なのですが、湯気を眺めたあとに啜ると満足感があったりします。

どちらも8のつく日にヨーカドーで買い置きしておいたもので決して高いものではないのですが、それで満足が得られるのですから、お手軽な男なのかもしれません。安易ですがしばらくとろろ昆布とカツオ節を欠かさぬつもりです。