最近の零れ幸い

どうしてそんなところが痛むのか理解に苦しむのですが、ここしばらく、肋骨の最下部の背中のすぐ横のあたり、それもなぜか右側だけが不規則に痛くなっていました。夜眠れないというほどでもないし、ディーゼル機関車の運転士ではありませんから上半身を曲げて仕事するわけでもなく、くわえて、痛みが不規則なので痛くないときに整形外科へ行ってもなあ…と考え、様子見を決め込んでいました。

先週のある日の午後遅く、仕事中に落としてしまったペーパーを拾おうとして前かがみになったとたんに再び痛みはじめ、我慢できないことはないのでそのまま退勤までやりかけの仕事を続けていました。ただ痛みを我慢するというのは不思議と体力を使うようで、勤務先を出たらかなり疲弊しているのを自覚していました。

通勤経路は途中まで地下鉄で、退勤時に勤務先の最寄駅から座れるなんてことはまずありません。ところがその日、吊革につかまっていたら途中の竹橋で目の前の人が降りるために席を立ち出来たの空席に終着駅まで座れ、いくらかラクになっています。はてなの今週のお題「最近のラッキー」を引っ張ると、零れ幸い的な意味ならば地下鉄の中のそれです。

宝くじに当たるとかデカい話ではないものの、弱ってるときに不意にぶち当たる零れ幸いはちょっと有難かったり。こういう場合、誰に感謝すればいいのかわかりません。ので、神様か仏様か管轄がわかりませんがご連絡、お待ちしております…って真面目に書いてきたのに最後がそれじゃダメじゃん。

大月市猿橋見学

新宿から中央線で西へ行くと高尾から先、勝沼まではずっと山の中を走ります。その高尾と勝沼のあいだにあるのが大月市でもちろん住宅地や工場はあるものの周囲は山に囲まれ、その大月市で比較的有名なのが猿橋という橋です。そこそこ有名ではあるものの山梨へなんども行ってるにもかかわらず、見たことはありませんでした。なんのことはない、橋を見てどうするの?感が強かったのです。でもって山梨に年に何回か行くうちにそのうち行くぞと考えていた寄り道スポットをほぼ消費しちまい、かといってそのまま東京に戻るのも芸(…芸?)がないなあ、ということで先週末に一泊したあとに、帰途の途中でまだ見学してなかった大月市の猿橋に寄ってきました。

そのかんじんの猿橋なのですが

長さが31メートルほど。ただ橋下の桂川の谷が深く、ので、両岸の岩肌をくりぬいてそこに(はね木とよむ)桔木という木材を差し込み対岸に向けてせり出しその上に枕梁を置き、さらにその上にちょっと長い桔木を乗せてそしてその上に枕梁を置き、という具合に4段ほど重ね、その4段目の上に橋が架かっている構造です。

腐食を防ぐために瓦を葺いていて、瓦が八の字に見えてるのが枕梁の部分で、上に行くほど伸びてる瓦を葺いてあるのが桔木の部分です。水面から橋までの高さが30メートル以上あり橋げたを設置するのが難しそうで、なるほどこの工法しかなかったのか…と現地へ行って理解できました。能書きはともかく、現地で現物を眺めると「うーんよく考えたなあ…」という嘆息しか出てきません。

ところでこの架橋の方法を桔橋という(らしい)のですがまったく難点がないわけでは無く、岩肌に桔木をぶち込む上に水の上なので木製の部材が朽ちやすく、ので現地の説明によれば、昭和の終わりに一部鋼材を使う工法で長持ちさせる工夫をして架け替えてあって当座はダイジョウブのようです。

橋の上から桂川の下流方向の眺めで、手前が水力発電所への水路橋で奥が現在の甲州街道です。いまも昔も相模湖から猿橋までは甲州街道は桂川北岸を通過しますが猿橋で南岸へと渡ります。つまるところ上記の桔橋はかつての甲州街道のルートです。

橋のいくらか上流のあたりの眺めで、橋を架けるなら橋げた有りの橋でこのあたりでもよさそうな気がするものの、甲府盆地と異なり大月の有る郡内は夏は雨が多いのでここだとこんどは橋が流される可能性が出てきます(≒そのたびに費用が嵩む)。そうすると橋を架ける適地は流されそうにない実際に架橋されてるさきほどの狭そうなところしかなさそうだ、とか現地であれこれにわか架橋奉行ごっこもしていました。

行くまでは「橋を見てどうするの」と内心思っていたのですがいざ実際見学すると、興味深いところでした。やはり現地現物を眺めると昔の技術者の考えが理解できて時間泥棒でした。

以下蛇足です。

大月が桃太郎の里になってることを今回現地ではじめて知りました。おもわず「マジっすか」と声が出ちまったのですが、犬目であるとか鳥沢であるとか一応のつじつまはあうようで当地猿橋では猿を従えたことになっています。とはいうものの猿橋で猿を見かけてはいませんが。

なお猿橋は駅から歩いて15分くらいのところにあります。残念ながら猿橋駅は特急は止まりません。

「いわおとなりて」

いまから思えば育った街が空襲でなんどもやられたところというのも関係するかもしれぬものの、国歌というのを楽譜は見た記憶があるのですがそれは別として学校でどんな内容かを教えて貰った記憶がありません。ので、そんなのがなんらかの拍子に歌詞付きで国家を聴くと

さざれいしのいわおとなりて

というところで思考がストップし、え?さざれ石という岩が鳴る?どんな音が鳴るの?と不思議に思っていました。解決したのは辞書を引いてからです。神奈川の寒川町にさざれ石が置いてある神社があって「そういえば」と以前に彼氏にいわおとについての昔話をしたら声を殺して笑い、いまでこそそんなふうに笑い話にできますがいまこれを書いているやつは世が世なら真っ先に非国民と罵られるタイプですってそんな話をしたかったわけでは無くて。学校で意図的になにかを教えない、というのは無知のまま世の中に出るリスクがあるのではないかな、と。

話はいつものように横にすっ飛びます。

野党の党首が4月に北海道で「開拓の歴史を教えるべきであってLGBTを教えなくていい」という趣旨の演説をし、毎日新聞が質問状を送ると「限られた授業時間の中で何を優先して教えるべきかという教育政策上についての問題提起」という返答があったことの報道が7日付の毎日新聞で知りました。

ただその記事の中では性の多様性の扱い方について教育指導要領などには規定がないことをにも触れていて、その点については現状では問題が無いわけではないようで。

学校でLGBTについて教えるべきかどうか、というのは、個人的には教えておいたほうがよいのではないか?感が強いです。誰もが目と耳が二つあって鼻と口がひとつでも人間は工業製品ではないので誰もが同じとは限らない、というきわめて当たり前のことをなぜか性の分野では想像が働かないことがあるからです。また「誰もが異性に興奮するわけでは無い」「誰もが異性に恋に落ちるわけでは無い」という点を知識として多数の人が得ておくだけでも、仮にある集団の中にその属性の個人が居た場合、フォローできる可能性がでてくるからです。そして多様な性について何も知らないで無知のまま社会に出て恥をさらすよりも知っておいた方が良いことのひとつでもあるはずです。

個人的なことを書いておくと学校でLGBTについて教えて貰った記憶というのもありません。ただ昭和の終わりに近い確実にわたしが小学生のころに『ストップ‼ひばりくん』というアニメが夜にあって、番組冒頭に

「カラーテレビにしたって、色はいろいろあるでしょ」

(「ストップ‼ひばりくん」作詞・伊藤アキラ)

というフレーズのある主題歌がながれそれは

「ぼく、君が好きもじもじしないで」

と続いていて、主人公が同性を好きになるという設定なのかと子供でも理解できる内容で、ああそういうことがあるのか、と察しています。ただし視聴した記憶がないので歌詞以上の内容は知りません。

そして大事な点なのですがそれらの知識を得たからセクシャルマイノリティの当事者になったわけではありません。わたしはパソコンなどを買うときには財布と相談しつつ性能や価格を調べて合理的・打算的に判断しますが、私生活においては非合理的・非打算的に行動をしていてその結果、傍からみるとそこはセクシャルマイノリティとくくられる場所なのだな、と気がついた次第です。

↑上に書いたことは別にセクシャルマイノリティに属してなくても根っこの部分では同じのはずで、彼氏彼女奥さん旦那さんパートナー名称はともかくずっとでも一夜でもだれかと一緒にいることを決断するとき、パソコンを買うときのような合理性を考えたり打算的に選ぶかと云ったらそんなことはないはずなのです。その非合理的かつ非打算的な行動のうち、同性などだとセクシャルマイノリティとくくられることがあるわけで。

話をもとに戻します。

地震の震源が関東であった場合に夜の静かな時間帯だと地響きが聞こえることがあります。プレートが沈み込んで元に戻るのが地震という知識を得てからはようは岩石同士がこすれる音なのだな?と解釈し、その音を聞くたびに「いわおと鳴りて」ってこんな感じなのではないか?と云いたくてうずうずします…って途中まで真面目に書いてきたのにねえ、最後がそれじゃダメじゃん。

「選挙」という言葉の変化

今と昔では意味合いが異なってくる言葉があって、記憶に間違えなければ「煮詰まる」という言葉はある課題について論点整理がなされて結論が見えてくるような状態を指すものであったはずが、いつのまにか、にっちもさっちもいかずにどうにもならなくなってくる状況を指すものにも使われるようになっています。日本語が乱れているとかそれらを嘆くつもりもないものの、どうしてそうなったのか?は謎です。くだらぬことを書くと、弱火でしばらく火を通すつもりでいてしかしそのまま放置して焦げはじめて収拾がつかなくなった鍋のかぼちゃのほうとうのイメージが日本全体に共有されたのではないか?と半分冗談半分本気で疑ってるのですが、かぼちゃのほうとうは山梨以外では残念ながらいまだにメジャではないので自説にそれほど自信はありません。

話はいつものように横にすっ飛びます。

勤務先のそばの大丸で忙しいときなどにたまにモチベーション維持のためいつもよりちょっと良いパンを買うことがあります。昨夜も退勤後に寄ってたのですが、その大丸ではいま、店内でパフェとかき氷を食べた人に対して投票券を与えて投票箱を作り人気投票をやって(て、後日投票結果が発表され)るのですがそれを「総選挙」と称していました。わたしが大学生の頃に湾岸地区での都市博という博覧会の中止を訴えた青島知事が誕生していてそのまま博覧会が中止になってて、選挙というのはみずからが望む政策に近い候補を選ぶものだという刷り込みがわたしは強かったので違和感が正直ありました。

でもどうもいまは人気投票=選挙の意味合いが少なからずあるようで。

本来は人気投票=選挙ではなかったはずなのです。かといって、人気投票の意味での選挙という語句の使用禁止は言論統制になりますからできません。「煮詰まる」と同じように言葉は時代によって変化すると云ってしまえばそれまでなのですが、言葉って怖い方向へ変化することもあるのだなあ、と。うまくまとまらないのでこのへんで。

「すごい」について

よくよく考えるとそれはほめ言葉なの?というのが世の中にはあったりします。たとえばいくらか品の無いことばではある「巨根」がそれで、それは長さなのか直径なのかよくわからないのですがあいまいなまま言葉として流通し、なにかと比較して相対的にほめてるように錯覚するものの、しかしなにと比較してるかは曖昧でまったくわからないことが多いです。そして「すごい」もそうで、おそらくなにかと比較して「すごい」がでてくることがあるのですが、しかしなにと比較されてるのかは咄嗟にはよくわからないことがあります。ニホンゴムズカシイデス。

以下、いつものように話が横にすっ飛んで恐縮なのですが、個人的な体験を基に書きます。

先日上野の東博で加賀前田家展を見学し、職人歌合という詠む側が室町期の職人になりきって歌を詠んで(ここらへん正直なにを云ってるのかよくわからないと思うのですがそういうお遊びを不思議なことに当時は大真面目にやっていてそしてその歌の)優劣を競い合っていた会の資料を眺めていました。そこには砂糖の饅頭売りに扮した場合の絵が描かれていて、毛筆で

「さとうまんじゅうさとうまんじゅうよくむして候」

とすぐそばに書いてあるのでそれを読めばその絵は砂糖饅頭売りに扮した職人だとわかります。隣にいた彼氏は毛筆が読めるほうではないでなんの職人?と小声で訊かれて小声で饅頭売りでよく蒸して候と書いてあると即答したところ、盗み聞きしていたっぽいすぐそばにいた見知らぬ異性がこちらをみて「すごい」と云っていました。毛筆でかかれたものを読めるのは戦前の手書きの登記簿や契約書や毛筆でかかれた書面などを必要があって読んでいたせいで特殊な技能でもありませんからこっぱずかしくなってきたのでいやいやと否定してます。で、ここから先は推測ですが、毛筆で書かれたものが読めるか否かとか、人は自己に無い能力であるとか技能があると比較して「すごい」ということがあるのではないか?な、と。

わたしはあたまが悪いほうなので「すごい」について上記の経験を経てちょっと勉強になったのですが。

ここではてなの今週のお題「私のまわりのすごい人」を引っ張ります。

死んだ両親はともに血管が出にくい体質でわたしもその体質を見事に受け継いでいて、技師や看護師さんに苦労をかけてしまうことがあります。場合によっては何度か針を刺すこともありました。で、今週に入ってから病院での採血があったのですが器具もなにも使わず一発で成功してて、思わず「すごいです」と声が出ちまっています。看護師でも技師でもないので注射の技能はさっぱりというのもあるのですが、すごい技能を持つ人が居るもんだな、と感嘆が漏れたというか。もっとも通院先というだけで「まわり」といっていいのかどうか怪しいのでこのへんで。でも今後とも採血のときだけはその人とお近づきになりたいかな感はあったり。

紫陽花咲きはじめ2026

くだらないことを書きます。

『デキる猫は今日も憂鬱』(講談社・山田ヒツジ)という漫画の中で、主人公の福澤さんがどってことない生活の中で個別の名詞を口にしないでいるうちにいつのまにか名詞が出てこなくなっていたことを嘆く回があります(40缶目)。それを読んだ直後は「いやそんなことないだろう…」などと思っていました。

で、いましたと過去形で書いたのは今日福澤さんに似た体験しちまったからです。

わたしはインスタントコーヒーが舌にあわず、レギュラーコーヒーと云えばいいのか粉のコーヒーを淹れて飲んでいます。今朝もコーヒー粉をフィルタに入れて淹れていたのですが、途中からそのコーヒー粉のフィルタを受け止めるプラスチック容器が気が付かぬうちに亀裂が入っていたようで容赦なく熱い汁が溢れてきちまいました。火傷こそしなかったものの、処理ののち、いざ買いもののメモにいざ名前を書こうとしたら、その「コーヒーのフィルタを受け止める容器」の名前が毎日見ているものにもかかわらずまったく思い出せません。

「あー、ほら、なんていったっけ?コーヒーのフィルタを受け止める容器」と訊くのも私はバカですと白状するのに等しくいくばくかのカッコつけをしたい性分ゆえできない相談で、ので、こっそりスマホで検索したら出てきました。ドリッパーです。道は開かれた!ビバ!!インターネッツ!!!でもって、こうなってくると福澤さんを笑えなかったり。たしかにドリッパーという固有名詞を使っていなかったので、固有名詞を使わないでいるとでてこなくなるというのは腑に落ちるというか。

ここで終わらすと記憶力と語彙が怪しくなりはじめたあわれなおじさんの日常になってしまうのでとってつけたような報告事項を書くと

ドリッパーを買いに吉祥寺まで出たのですが

井の頭池周辺は紫陽花が咲きはじめました。

ポテサラの懐の深さについて

春先にイチゴを買いました。仮に口内炎にイチゴが効果があるのだとしたらイチゴをベースに特効薬のひとつやふたつあってもおかしくありませんがもちろんそんなことはないはずです。しかし、以前イチゴ入りのヨーグルトで改善したことがあったのと、静岡久能山へ行ったあとで現地で食べたのが美味しかった、というのもあって、口内炎の治療用という名目で買っています。

イチゴとともに練乳も必要であるという主張を受け入れて練乳も同時に買ってます。ただ、イチゴを買い続けると破産しかねませんから練乳を使いきる前に口内炎がなんとかなった段階でイチゴを買うのを止めています。残ったのは使いかけの練乳で、正直ほかに使途がわからず、しかし眺めていても減るわけではありません。かといって捨てるのはもったいない。

考えた結果、試しにポテサラに入れました。田丸屋などの本わさびをポテサラに入れることがあるのですが正反対の甘みでもなんとかなるのではないかというシロウト考えで、2人分なら小さじ1杯分ぐらいで想像したよりコクが増しました。アリかナシかでいえばアリです。もっともポテサラにコクが必要か?と云われるとぐうの音も出ません。

いままでポテサラにはわさびのほかカレー粉を混ぜたことがあります。そして今回、練乳はマヨネーズにあうポテサラにあうのかとここで知ったのですが、ポテサラってあんがい懐が深いのだなあ、と。ただポテサラのためだけに新たに買うつもりもないので使いきったらさすがに終わりにするつもりです。