カンテラ

東京はそれほど雪が降りません。いま住んでいる多摩は降って積もったあと、冷たい強い北風が吹けば凍結して転倒しかねず厄介なので出勤前とか帰宅後、できる範囲で除雪しています。もちろんみんなそんなことをするわけではなくて、隣のアパートは誰もそんなことしませんし、なので近所でもわりと最後までアイスバーンがみられます、ってそんな話はともかく。

父に連れられておそらくどこかへ行く途中だったと思うのですが、メガネを買って貰ったばかりの子供の頃に降り積もる雪の中を駅に着くと駅の照明が途切れた夜明け前の薄暗い線路の向こうに小さな炎がいくつか灯ってるのが見え、あれはなにかと訊いた記憶があります。死んだ父はいくらか鉄分多めだったのか、カンテラっていって雪の日にポイントを凍結させないために火を灯している、と即座に答えてくれました。その夜明け前の薄暗い線路の向こうに小さな炎が灯る情景とカンテラ、という言葉だけは記憶に残ってて、夜明け前でなくても剣道場への行き帰りとか雪が降った日の夕方などに近くの踏切を通ることがあればなんとなくポイントをのあることろを目視して、カンテラを見つけると「あ、灯ってる灯ってる」とこっそり喜んでいました。ヘンな子供です。

子供じゃなくなってカンテラの記憶も薄れて父も死んで、遊びに行った相手のところから帰るとき雪が降ってて、雪がその記憶を呼び覚ましたのかカンテラをふと思い出し、ホームの端っこへ行ってポイントを目で探したものの小さな炎は灯っていませんでした。後日鉄分多めの同僚に訊いて知ったことですがいまは電気式の融雪システムが主流になってるそうで。そのほうが手間はかからないわけで、そりゃそうですよね。

雪が降ると線路に小さな炎を灯すカンテラが風の影響で雪がすぐ凍る関東独自のものであるのかどうかはわかりません。ただなんとなく薄暗い雪の中、小さな炎が灯っているあの光景をもう一度みてみたい気がって、もしかしてこういうのを過去への郷愁っていうのかもしれませんが。

はてな今週のお題「雪」なんすが、微妙にズレちまいました。

人を狂わせるもの

親が既にこの世に居ないこともあって相続の結果、株式を複数持っています。すべて隣県のいわゆる中小企業で無配です。そのうちの1社は筆頭株主なので必ず株主総会に出席してます。でも筆頭株主ではない残りの会社は毎年は出ていません。うち1社は吹けば飛ぶような会社ではあるものの数年前、黒字にこだわる代表取締役と決算や経営の在り方に関して意見が異なる結果となり(わりかし短気なので)頭に血が上ったので「そのうち融資先から見放されますよ」と告げたうえでそのときは計算書類も賛成しませんでしたし、以後ドブにお金を落としたと考えて総会の通知が来ても委任状も出さずにずっと総会にも出ませんでした。

ところが今年になって総会の招集通知の代表取締役の名前が以前と変わってて、おや?と思ったあと新経営陣から個別に連絡もあったので吹けば飛ぶようなその会社の株主総会へこの週末に行ってきました。会場につくと面識のある人から別室によばれ、と問わず語りで私が衝突した前代表取締役は去秋に取締役会で解任動議が出て社長の座から引きずり降ろされててヒラの取締役兼従業員になってる旨の説明を受けました。直接の解任のきっかけは愛人とおぼしき異性を名目上パートとして雇い(なにその安物ドラマみたいな展開…って口にでかかったもののわりかし短気なくせして空気を読める子なのでさすがに黙ってましたが)勤務実態がないのに給与を払っていたことが他の取締役が気が付いて激怒したことです。他にもあるんじゃないですか?と誘い水を向けると、2つほど頭の痛い事案も発生してて協力を要請されもちろん応じたのですが、しばらく無配も続きそうです。

経営の話は横に置いておくとして、いつどこで読んだかも題名も記憶があやふやなのだけど社内恋愛を描いた漫画があってちょっとずつ狂ってゆき、愛とか恋というのは正常な思考を狂わせるのかなあ、という感想を持ったことがありますが、フィクションじゃなくて実際にそのテの事件が起きると、やはり愛とか恋とかってのは正常な思考を狂わせるんだなあ、とあらためて思い知りました。生きてるといろんなことありますね。

帰途、信玄餅を購入しました。黒蜜はともかくとしてたいして味のないはずのきな粉を毎回余らせて、もったいないなあ…上手く食べる方法は無いだろうか、と食べたあとよく思索にふけるのですが今回もまた余らせちまい数秒、思索にふけってました。信玄餅のきな粉は正常な思考を狂わせると思うのですが、そんなことないかな。

両性二人の合意ではない婚姻である同性婚について

これを書いてるのは40代の美中年…じゃねえ、いくらかくたびれたおっさんです。そのおっさんが紅顔の美青年だったころ…じゃねえ、いくらかくたびれた勤労学生だった頃、民法家族法の授業で出された質問が「なぜ同性2人では婚姻が出来ないのか」というのでした。ここらへんなんべんもかいているのですが、民法家族法の婚姻のところをいくら読んでも近親婚の制限や重婚禁止などの規定があるのですが、なぜか同性同士の婚姻について禁止する条項がありません。でも不思議なことにできません。たねあかしをすると、条文を追うと婚姻の効力について規定のある第739条に「婚姻は戸籍法の定めるところによりこれを届け出ることでその効力を生ずる」とあります。民法家族法は戸籍法にもたれかかる構造であるのですが、戸籍法が男女2人の婚姻届提出を前提にしているので、できない側面があります。より正確に書くと戸籍法の細かい部分を定めた戸籍法施行規則の付録目録第12号に婚姻の届出に関する様式が定められててそこには(長男とか次女とかを記載する)父母との続柄欄に片方が男、もう片方が女とあるので、どちらかが男でもう一方は女である2人を想定してて、同性二人ではそこに記入不可ですから届出しても受理してもらえません。いまのところ同性のカップがもし同じ籍に入るとしたら唯一の手段が養子縁組です。

戸籍法と民法のほかに憲法に留意する必要があります。24条1項の「婚姻は両性の合意のみに基づく」というのがあります。その語句を素直に読めばおそらく「両性の合意」では確実にない「同性2人の合意による婚姻」は憲法やその他法令は想定してないのではないか、と思われます、というか法学部に入ってあほうがく部をでた美青年…じゃねえくたびれたおっさんは思っていました。

複数の同性愛者のカップルが現状の同性婚の否定は違憲であるというような趣旨の訴訟を国に対して提起した、というのが15日毎日東京版にあったのですが、超ストレートな問いであったりします。24条をどう解釈してるのだろうと不思議に思っていたのですが、夫婦別姓に関する訴訟(最判H27・12・16民集69巻8号2586頁)で、この24条について「婚姻は当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨である」と最高裁判決理由中で述べていて(私はその部分を読み落としていたっててめえの読み込みの浅さのことはともかく)、それを引用して24条が婚姻の自由かつ平等な意思決定に委ねられてる規定であるなら同性婚を否定したものではないのではないか、という解釈で、だとするならば婚姻が事実上異性間2人のものに限っている実情は憲法違反なのではないか、という主張で、巧いところ突っついています。

違憲判決って出にくいのですごくハードルが高いもののやってみるだけの価値のある裁判なのかもしれぬ、ということは理解できました。いわゆるセクシャルマイノリティのはしくれに位置しつつ当事者としてではなく、かつて勉強したものとして、純粋にこれから先、裁判所がどう判断するのだろう、ということに興味があります。

孤独の副作用

前にも書いたかもしれないのですが前任者から資料を引き継いで読み込んでいた時に資金の流れで不可解な点があって、ある程度確証を得てから「これはどういうことですか」ということを尋ねたことがあります。興味深かったのはそのときの当事者が「いままで気が付かなかいほうが悪い」という趣旨のことを述べたことがあります。酌量の余地はありませんが止める人がいない孤独をうっすら感じました。でもって誰もがではありませんが人は、孤独を感じると・第三者がみていないと錯覚すると、自分が何をしているのかという判断ができない・善悪の判断が鈍ってくる・行為が暴走することがあると私は踏んでいます。

頓珍漢なことを書くと昨今の不適切動画の報道を眺めててうっすらと感じたのは「孤独だったのだろうか」という点です。キッチンの炎で煙草に火をつける、ということを含めもちろん「笑いをとる」ために動画を撮ったのだろうなというのは容易に想像できて理解できます。「笑いをとる」というより「呆れられ笑われるほう」なのですが誰の笑いを取りたかったのかはわかりません。でもあそこまでしないと仲間内でも観てくれない、と考えると孤独だったのかなあ、その孤独は誰かに見てもらうことで解消できたのかなあ、などと考えていました。また動画である以上は被写体が居て撮影者が居るわけでブレーキ役がいないのが不思議だったのですが、バレないと錯覚して動画を撮り、見つかったらどうなるかの見当もつかず、でもその秘密やスリルを共有することで仲間内で一体感を共有してた≒孤独ではなかったとするなら、是非は横に置いておくとしてまったく理解できない、というわけではありません。もちろん酌量の余地はありません。

孤独は人を暴走させる、というのは特段なんらかの学説があるわけではなくて、(愚者は経験から学ぶという言葉が正しければ)経験から学んだ愚者の皮膚感覚から来るものであったりします。ですから誇大妄想的なところがあります。彼らを理解不能とかバカ者として断罪してしまうのはわりかし簡単なのですが、孤独が続く限り、似たような事件は起きちまうのではないかな、と思ったり。

偶然私はキッチンの炎で火を点けるとかその方向へ行かなかった意識があります。孤独ではなかった・孤独でも耐えられる方なので、目の前で似たようなことをやったら止めるだろうと思います。もし孤独だったら・孤独が怖かったら根はバカなので中華鍋を叩いてラテンのリズムをとるくらいの動画は撮っていたかも。なので動画を観てもちょっと笑えないところがあったりします。(意味不明かもと思ったので15日に一部加筆しています)

えのすいへ

武蔵野の雑木林の中で育ったので海にはあんまり縁がありません。10代後半に横須賀へ行くことがあってそこではじめて赤色や紫色のヒトデを目撃し後ずさりし、見慣れぬ異形の生命体にうっすらとした恐怖を覚えた記憶があります。その反応が面白かったのかデートなどで葛西臨海を筆頭にいくつかの水族館を訪問しています。改装前の江の島水族館も訪問してて、しかし移転改築して新江の島水族館になってからは行ってなかったので避寒を兼ねて行ってきました(降雪がないだけで江の島も寒かったのですが)。

相模湾の逗子の水中を再現したブースがあります。やはり「異形の生物がたくさんいる」感が強いです(できれば触りたくないな、程度の)。でも生来の好奇心ゆえかついじっくり見ちまうところがあります。見てるうちに麻痺して異形ってのは見慣れてるかどうかどうかなのかなと気が付き赤とか紫のヒトデがこの中に居たらおかしくないよな、的なことを考えちまい、異形とおもってるものが異形と思えなくなってきます(でもできれば触りたくない)。

クラゲも異形の生物感があり、できればいまだ触りたくないなあ感が強いのですが、浮遊しているのを眺めてるとなぜこの形状をしているかがうっすらと理解できてきて、そのうち目で追っていました(でも触りたくありませんが)。

綺麗にディスプレイされてる展示もあります。でも不思議と周囲に人がいませんでした(怒られそうなことを書くと、クラゲの浮遊する無駄のない機能的な姿を見ちまうとこの展示は要らないよなあと思えた)。

触りたくないとかてめえの感想はともかくとして、飽きさせない工夫はあちこちにあります。

頭上を通過するとやはり「おお!」となっちまいました。でもって写真は撮らなかったのですが、光の届かない深海で、クジラの死体であるとか熱水噴出地帯で発生する硫化水素をエネルギー源として有機物を作る化学合成細菌を共生させている生物や生態系の展示もあります。地味なんすがあらためて見学すると興味深く、生態系って巧くできてるよなあと唸っちまったんすが。

巧くできてるよなあ、という点ではペンギンもで

水鳥ならではの水中での彼ら彼女らのスピードを目の当たりにするとペンギンの姿かたちはこのためなんだな、進化って巧くできてるよなあとあらためて納得しちまいます。

やんちゃな子っぽく見えちまうのはペンギンに人間を投影しちまって良くない傾向かもですが、なんだろ、つい口許が緩んじまうところがあったり。

正直に書くと疲労が若干あって、でかけることがほんのちょっと億劫だったんすが、水族館の中に入ると雲消霧散してました。知的刺激って麻薬的なところがないですかね、ってないかもですが。

慣れぬこと

くだらないことを書きます。10代の頃、人に読んでいることを知られたくない本を買うときは、昔住んでいた街の本屋では買いませんでした。よその街で買っていたのは一例を挙げると「ここはグリーン・ウッド」という漫画の単行本で、少女漫画雑誌連載だったので記憶に間違えなければ花とゆめコミックスで、〇〇さんちの息子は少女漫画を読んでいる、と知られるのがイヤだったのです。もっともそれらが本屋の店主に知られたところで言い触らすとは限りませんし、言い触らされたところで死ぬわけでもありませんから、これらの行動はもしかしたら・いまからおもえば噴飯ものかもしれません。少女漫画を読むのは軟派であってそれを知られたくはない、なぜならカッコイイ硬派の男としてみられたい、という欲求が無駄にあったゆえの、自意識過剰というやつです。

私は同性にチョコを渡したり貰ったり、という関係を構築しています。でもっていまの時期、大丸の特設チョコ売り場へ行けば「ああこの人は女性から貰えないから自己チョコを買ってるのか」と思われる可能性があります。もちろん自己チョコ買いと思われても良いのではないかと脳内でちょっとは結論付けようとするのですが、数分後にはここはグリーン・ウッドの頃から培ったカッコイイ硬派の男でありたいという10代後半の頃からの自意識過剰が二十数年経て脳内で枯れずに育ってきちまってるので自己チョコ買いするような軟派にみられるのはなあ、と、なかなか割り切ることができません。チョコを買わずにバランタインウイスキーで済まそうかとか考えたこともあるのですが、チョコを期待してるフシはあるのであんまり裏切りたくありません。鏡の前でひげ剃りながら目が大きいと女装映えするっていってたけど女装はするくらいなら舌を噛んで死ぬ方がマシだよなーとか、(社会の在り方に転嫁して)男女均等の社会なんだからもっと男がチョコを買いやすくするべきなんだよとか、2月上旬はあれこれ思考が謎発展しててちっとも硬派ではないカッコよくない大人になり果てます。

はてな今週のお題が「わたしとバレンタインデー」です。ここ何年かは狙いは通勤につかうJRの駅ビルの中にある、ケーキも売ってる洋菓子店の支店の隅に置いてあるチョコなのですが、風邪でもないのにマスクをしてメモをみるふりをしつつ近づき、勇気をふりしぼって購入しています。何回経験しても慣れません。今年は問題を先送りしていてまだなのですが、この週末、東京は雪が降るようなので人出が少ないと踏んでそれを奇貨として、覚悟を決めて準備するつもりです。ほんとはチョコって勇気とか覚悟とかが必要なものではないはずなのですが。

 

 

焦りの副作用

コンタクトレンズをずっと装用してるのですが、たまに困っちまうのがコンタクトレンズがズレて、眼球とまぶたの間に入りこんじまうことです。空気が乾燥してるとなるのかなと思っていたのですが、退勤時の雨降ったあとでもなっちまいました。違和感があってコンタクトレンズが落ちてないことはわかるので最初はあわてなかったのですが、寄ったスーパーのトイレの鏡の前で人工涙液の目薬をさしても今日はすぐにはサルベージできず、一呼吸おいてから再度チャレンジしてサルベージに成功したのですが、焦っているときってなんかこうたいして経過してなくても、時間が長く感じませんかね、ってそんなことないか。