29日ドラッグストアにて(もしくは縁遠い3文字をみて動揺した小心者の話)

コンタクトレンズを長いこと装着していて結膜炎がイヤなので≒痛いのはイヤなので、目のあたりの領域に手で触るときは手洗いをする習慣が出来ていました。去春からこちら、手洗い励行がいわれるようになってそれを間断なくいまでも維持できてるのは結膜炎対策の延長線上というのもあったりします。くわえて新型コロナに感染するとつばや水が喉を通過するときに痛いとか耳学問で聞いたこともあって、とにもかくにも痛いのはなるべく避けたいです。個人的には痛さに対する恐怖は感染対策のエンジンです。

先日、「感染するのは運次第」的なものをSNSで見てしまってからそろそろ本格的にSNS離れしたほうが良いかな、と思ってるのですが…って私のSNSの動向はどうでもよくて、私個人は運次第というのを痛いのはイヤなので受容するわけにはいかなくて、手洗い励行に加えて不織布マスク着用もできうる限り徹底しています。28日毎日夕刊にコロナに感染した記者の手記が載っていて、一時的ではあるものの苦味に敏感に舌が変化したことが述べられてて「美味しいものを美味しく感じられないのは怖いな」という恐怖があって、ぜひとも避けたいという意識がより強くなりました。感染して痛いのも美味しいものが美味しくなくなることも運だとしたら、その運から必死に逃げたいわけで…って、書いててどんどん知性を感じさせない幼稚な方向に進んでいる気が。

痛いのも酒が美味しくなくなるのもイヤなのでワクチン接種(モデルナ)を受けることにしてて、配給さえ滞らなければ8月上旬の予定です。まだ日時的に余裕はあるのですがタイレノールというのがあったらいまのうちに買っておけ、と彼氏からアドバイスを受けてはいて、しかし残念ながら私の行動範囲のドラッグストアでは売り切れでした。代わりに薬局で在庫の中から薦めてられたのがバファリンルナiです。

お題「これ買いました」

ご覧のように効能に生理痛が最初に来てて、まさか女性と間違われてるわけではないよな?とありえないことを(睫毛が長いので)ちょっと考えつつもその質問はせず購入しています。カバンに入れてから時節柄退勤時に職務質問を受けて所持品検査を受けて「これは何?」ってなったらイヤだなあ、などと不安になったのですが、幸いなことに職務質問も所持品検査もありませんでした。これを書いてる時点ではその不安は噴飯ものなのですが、慣れない縁遠い文字が書かれたものを目にするといくらか動揺することってないっすかね。ないかもですが。

さて、通勤に使うJRも地下鉄もずっと窓が開いています。「ここまで開けてください」という印があるのですが退勤時はそれよりも開いていました。そこにいた人は誰一人として印の位置に戻そうとしませんでしたし、ここ数日の都内の感染者数の数字をみると「念のためそうするよな」とは思うので、私もそれを戻すようなことはしませんでした。昨日や今日と同じようにいままで通り注意深く対策をしながら、明日からも働く予定です。

本のカバーのこと(もしくは本の扱い方のこと)

東京の感染状況はかなりシビアなのですが、今日も今日とて少しくだらない話を書きます(いつもくだらないことばかり書いていますが)。

最近「開高健は何をどう読み血肉にしたか」(菊池治男・河出書房新書・2020)という本を読みました。著者は開高さんの晩年の紀行文の「オーパ!」の担当者+旅行に付き添った人物で、開高家の人々が亡くなったあとに開高健記念文庫を立ち上げて開高家の蔵書の整理を担当しています。この本には自らの経験談や菊池さんの目から見た開高健像が触れられているほか、蔵書整理担当者として開高家の蔵書を整理しながら開高さんがどういう本を読んでいたかについて書かれています。ただし開高健作品を読んでいればより深みにはまるのですが・つまり開高健作品を読んでいないとちんぷんかんぷんに近くなりかねないので、いくらか一般受けしない本です。ただし作家に対する敬愛からくる熱量と自らの経験談の筆運びは良い意味で並大抵ではないです。

個人的に興味深かったことのひとつは、蔵書の中に「ベルリン日記1934-1940」(ウイリアム・シャイラー著・大久保和郎・大島かおり訳・筑摩叢書・1977)や「ヒトラージョーク‐ジョークでつづる第三帝国史-」(関楠生編訳・河出消防新社・1980)などのナチスドイツに関連する本があり、また生前に中編小説の(勉強嫌いの青年ヒトラーが主人公の)「屋根裏の独白」の続編を書くことについて宣言していたことも今回知ったのですが、ワイマール体制からファシズムに移行するドイツについてずっと注視していたっぽい点です。詳細は本をお読みいただきたいのですが。

いつものように話は素っ飛びます。

菊池さんは本の冒頭

開高健は蔵書家ではなかった。どころか愛書家でもなかった

と書きます。この文体は開高さんに影響受けたのだろうなと想像するのですがそれはともかく、続けて

これぞと思う本は読む前にカバーをはぎとり、帯ごと捨ててしまう。

さらに続けて

傍線を引いたり書き込んだりすることはしないが、ところどころページを折り込む癖があった。それも、ページの耳を折るというような可愛らしいやりかたではなく、ページの半分を折り込んだり、数ページを一緒に折りこんだりする。

と紹介し、本を読み倒す覚悟のようなものが伝わってくる、とも述べています。ただし、なぜそこか、なんのためにか、とかは模糊としたまま、とも。また、折り方も右上角、右下角、左上角、左下角、とバリエーションに富んでいたようで(P20)。

私はページを折ったりはしませんが買って読み込む本で気になったところは不要なレシートを挟み込んで置くので本から一反木綿が複数はみ出てるような見た目は麗しくない光景になります。また、即はカバーを捨てはしないものの、何度も読み込んでるうちに文庫などはページが反り返って来て合わなくなるのでそうなってくると捨ててしまいます(はぎとったカバーはまとめておいて、なんらかの拍子にそれが崩れてああめんどくせえってすててしまったこともあるのですが…って書かないでもいいことを書いている気が)。

はてなハイク(というはてなSNS的サービス)があったころに本棚を公開してる人が複数いて、キレイに並べられた本棚に整然とカバーがかかった本が並ぶ画像を見て、複数の一反木綿がはみ出てる単行本やカバーのない文庫本があるおのれの本棚をチラ見して、彼我の差にうなだれてしまったことがありました。でもって、開高さんが手許に置いておいた本を美しい状態で保存していなかったことを知れたことが作家と作家じゃない私を同列に置くのはおこがましいと思いつつ同類が居た気がしてならずちょっと勇気づけられてます。

もっとも、なにものでもないやつが愛書家でないことは決してえばれた話でもないかもしれなくて、書けば書くほどなんでもないやつが単に本の扱いに関して雑であることの自慢もしくは証明をしてるだけになってしまいそうなので、このへんで。

昼前に五輪中継を眺めながら

東京の気温を測定する露場は北の丸公園という皇居からそれほど遠くないところにあります。北の丸公園の路上の周りは森で露場そのものは芝生がはられています。したがって、公表されてる最高気温と、うら若き紅顔の美少年…じゃねえ、くたびれたおっさんが八重洲や東京の郊外でアスファルトの道路を歩くときに感じる体感の気温とはかなり差があります。東京在住ですらこの酷暑はキツいのに、異国から来た選手が(森の中にあるわけではない過酷な環境の有明のテニスコート周辺の)暑さに不満を述べるというのはよくわかる話で同情しかありません…って権限のない私が同情したところで事態が変わるわけでもないのですが。

これから非科学的なくだらない話をします。

大学時代、神宮球場で母校の応援をしたことがあって、そのときは目の前で母校は負けちまっています。そのあたりから自覚してるのですが、ほかにも優勝戦線に残れるかどうかという一番で贔屓の貴景勝と朝乃山の取り組みをテレビ観戦してたら負けちまった、ってなことがありました。理屈があるようでないのですが、私が勝って欲しいと思うほうが目の前で負けてしまう、ということがおのれの人生の中で複数回あって

gustav5.hatenablog.com

なのでWBCなどもなるべくリアルタイムでは見ないようにしていました。

たぶん有明ほどではないはずなものの、住んでいる多摩も今日も暑さがきつかったので食欲喚起のためとリクエストがあったので、貰い物の乾麺のそばを利用して、冷たいそばに大根おろしかつお節を載せてつゆをぶっかけた福井式のおろしそばを昼めし用に作るつもりでいました。その準備をしつつ時計代わりにテレビをONにすると水泳の中継をやっていて・画面をよく見ると男子平泳ぎ100メートル準決勝で、まあ球技でもないし格闘技でもないからいいかな、とそのままにしていました。

でもなんですが。

居ないだろうと思っていた日本人選手(武良選手)が第7レーンに居て、それに気がつくと勝って欲しいと思いつつあわてて画面はみないようにしたものの、結果7位で決勝戦にはすすめず。作ったそばは美味しかったのですが、ちょっとうしろめたさが。

私が悪いわけではないと思いたいのですが・理屈はまったくないのですが、武良選手、観戦してごめん。

忘却できないカチンときたときのこと(もしくはその対処法)

亀戸の天神様のそばに船橋屋という和菓子屋さんがあります。小麦粉を発酵させたくず餅が名物で、夏の暑いときの小腹のすいたときにはもってこいのもので・冷房などが発達する前から江戸東京でずっと食べ続けられたもので、冷やしたくず餅にはきな粉をかけたうえで黒蜜を垂らして食べます。ありがたいことに亀戸天神のそばまで行かなくとも亀戸駅や東京駅、押上や吉祥寺などでも扱っていて、週末におっさん2人がくず餅を冷蔵庫から取り出して嬉々として分け合って食べる姿は想像すると滑稽かもしれぬものの夏には欠かせぬもので、毎年必ず複数回は食べています…って、好きな和菓子の紹介の話をしたいわけではなくて。マリトッツォのように知名度が全国区ではないものの、東京にはくず餅のように食べられ続けてるものがあったりします。

はてなのサービスであった今はないはてなハイクはわりとゆるいところではありましたが、頭のゆるいのは私ぐらいで、意図してか意図せずか余計な一言のようなことを云う人も居ないわけではありませんでした。「東京にも美味しいものがあるんですね」という趣旨の、それが私に向けられた言葉かどうかはわからぬものの、どこか東京を下にみた・上から目線の投稿を、目にしちまっています。はてな今週のお題のもう一つのほうがはてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」なのですが、正確な日付こそ覚えていませんが、その文字を眺めたときの、カチンときた感覚・それまで聞こえたものが無音になった感覚は、(これって今でこそ「煽り耐性が弱い」のひとことで済んでしまうのですが)何年経過しても忘れることができません。東京で育ったので、船橋屋に限らず東京の食べ物や東京の味付けが舌の基準になっていて、それを全否定されたと当時は捉えていて、ショックを受けたわけで。話はいつものように横に素っ飛ぶのですが

「メールとかメッセージってさ、ぐさって刺さるんだよ」

前を向いたまま、咲太はいつもの調子で口を開いた

「…?」

「かえでがいじめに遭ったときさ…、カウンセラーの先生が教えてくれたんだけど、人って目からの情報が八割で生きてるんだってな」

(「青春ブタ野郎はロジカルウイッチの夢を見ない」P249・鴨志田一電撃文庫・2015)

ハイクが終わったあたりの一昨年から読んでいるラノベで上記のように書いてあって、目からの情報が8割がホントかウソかはわからぬものの、読んだときにはたしかに「目から得た情報はほんとキツイよな」と腑に落ちています。

誰かにダメージを与えたいという意図で発した言葉の直撃を受けたとき、いちばんの得策は攻撃側の目的を粉砕することになります。数分後にそう解答を導き出したあとは「いままでと同じ」ように振る舞っていました。

以前はてなには「村上さんのところ」というのがあって、それは読者が村上さんにメールを送ってそれを村上春樹さんが返信する、というシステムでした。そのなかで開業した花屋さんが村上さんの本の中で役に立った言葉として「優雅に生きることがいちばんの復讐」を一位に挙げていました(「村上さんのところ」P83・村上春樹・新潮社・2015)。詳細は本を読んでいただきたいのですがこれも感覚的に腑に落ちた言葉で、忘れることはできなくても(ここ数年は夏に船橋屋のくず餅を食べるときなど東京の食べ物を食べるときは気分だけでも)優雅にしています。

さて、コロナの第2波の頃、この時間の〇武線に乗ったらコロナに感染するかも、的なものをTwitterで読んでカチンと来てしまっています。通勤に使うのは〇武線ではないけど第1波の頃から職種柄リモートができないのでずっと電車通勤してる身からすると、ラッシュを回避できる身分でよかったですね的なかつてハイクに居たような人のような余計な一言を云いそうになって、それはリモートできない職種から退社することができない我が身にブーメランのように帰ってくると考え堪えてます。手洗い励行してマスク着用の上でやはり優雅に生活することがいちばんの復讐だと思っていて、そのようにしています。もっとも乗換駅で通勤特快が見えると「待ってくれぇ」と内心叫びながら階段を駆け上がって、無事間に合った車内でマスクを外そうとして外せなくて息苦しかったりするので、傍から見るとちっとも優雅に見えないのが難点なのですが。

それじゃダメじゃん

それがどうしてそうなったのかの由来はわからないけれど男性の同性愛に関してのネコというスラングがあります。品のない言い方をすれば挿入される側(よいこのみんなはわかんなくていいです)のことですが、それを理解していない段階で、仮に「私はネコです」(よいこのみんなはわかんなくていいです)といったら「こいつ頭おかしいんちゃうか?」ということになりかねません。言葉というのは「書くほう・話すほう」と「読むほう・聞くほう」に共通認識が無いと、てんでわけわかめになりがちになります。言語による意思の疎通ってむずかしいのではないか、というような認識を強く持ったのはインターネットをつかいはじめ、はてなというどろ沼に嵌ってからです。

これから書くことはなんべんも書いてることで、しかしおのれにとってはすごくコアな事柄です。

はてなにはいまは無い「はてなハイク」というサービスがあって、そこでのことですが、日本語で書かれている文章にもかかわらず、意味がわからないことが複数回ありました。

たとえば「最初に断定があって結論があってそれしか述べず、断定があるゆえに結論に至るまでの経緯に触れてないので、なんでそうなるのかがよくわからない」というケースです。厄介といえば厄介なのですが、それほど消耗しません。

別のケースは、先に書いたネコにつながるのですが「書くほうと読む方に同程度であると誤解して、説明を省いてしまうので、同質性がないからちんぷんかんぷんになる」ケースです。これ、同じ程度の知能の知識と思われてるのは光栄なのかもしれません。が、それがどこかで読んだ他人の知識を前提にされてしまうとお手上げで(≒自分の知識ではなくて他人の知識をそのまま借りて組み立ててる場合は自家薬籠中のものになってないのでその人の言葉でこちらにもわかりやすくかみ砕いてもらうことが望み薄なので)、こちらとしては悲劇で、ひたすら正解あてゲームをしなければならないと気がついて消耗して精神的につらくなってきたので、ちょっとずつ離れていってます。この事象を裏返せば、同質性がある人同士が交流するには、インターネットや☆をたくさんあつめることが良しとするカルチャーのあるはてなは適した環境かもしれません。それに私は適応できなかったわけで。こう書くと私の印象はトモダチが少ない・話題に入れない、哀れな頭の悪そうなやつになっちまうのですが。匿名のインターネットではそれでも生きて行けます。ビバ!インターネッツ!!

でもって、はてなハイクでそういう他人が書いた文章の意味がわからないという経験をすると、おのれの書く文章も他人が読んでも伝わらないかもしれない可能性というのをやはり考えるようになって、どうやったら読みやすい・意図が伝わりやすい・読んでる人が困惑せずに済むような文章になるかを考えて試行錯誤しています。しちめんどくさいといえばしちめんどくさいです。しかしその作業を止めたら私が自主的に離れた人と同じになってしまうのではないか、という恐怖があって、しちめんどくさいことを続けています。もっとも、しちめんどくさいことを続けて効果があったかはわかりません。文章を読んで「読みやすい」と気がつくのはたいてい読んだ人で私ではないから効果のほどがわからないです。それじゃダメじゃん。でも続けています。

さて、今週のはてなのお題がはてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」で、つらつら書いてきたのですが、しかし、インターネット文学ってなんなんすかね。

大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」

 というのが夏目漱石の「吾輩は猫である」の中にあるのですが、大和魂をインターネット文学に置き換えても置き換えても通用しちまいそうな気が。

自覚のない初期の白内障

右目の視力が悪いのでほぼ左目だけで生活しています。だもんで、何年か前に右目に関して緑内障です、といわれたときもちっとも自覚症状はありませんでした。それでも視力を失うのは怖いので、ちゃんと書けば良いほうの左目を失って本を読むのが難しくなるのはイヤだなあと思ってて、緑内障は眼圧が関係していますがドクタの指示に従い眼圧を下げる点眼薬の点眼を続けていて、検査のたびにほぼ毎回10mmghを維持していて優等生です。読書できぬ恐怖は健康を促進します…って冗談はさておき。検査の結果前より微妙に視野欠損が拡大してるのですが日常生活には何ら支障はありません。

定期的に受診してる眼科の通院日だったのですが、そこで右目が初期の白内障であることを告げられました。40代でもなる人はなります、と補足説明があったのですが、もちろんちっとも自覚症状はありません。(咄嗟に抱えてる仕事のことを想起して)念のため急いで手術したほうが良いレベルかを訊いたものの、そんな状態ではないようで。仮に手術をしてもコンタクトレンズは装用可能なことを確認して今日のところは終わりになりました。とりあえずドクタを信用して指示に従うつもりです。

「歳いくつなんですか?」と訊かれたら年齢不詳を逆手にとって小首をかしげて中指と人差し指をほおにあて「18でーす」とやってた頃が懐かしいくらいに歳をとっちゃったな、という妙な実感があったり。と、同時に、緑内障の副作用のおかげで無駄にまつ毛の長いおっさんになっているのですが、白内障がおのれにどういう変化をもたらすか、ちょっとだけ興味があります。

その場の空気の話(もしくは不可視のものをあれこれ考えてしまった悪癖)

少し書きにくいことを書きます。

今年に入ってから読んだラノベのひとつ、「青春ブタ野郎ナイチンゲールの夢を見ない」は赤城郁美という女の子がヒロインで実は何者かになりたかった正義感が強い女の子の話で、(度数の高いお酒を呑んだようなヒリヒリ感を味わいつつ)それを読んで、いったん正義感というのに支配されると傍から見ると滑稽なほどにそれが行動規範になりかねない、という感想を持っていました。不粋なこと≒ネタバレを少し書くと赤城さんは同じクラスのシリーズ通しての主人公である梓川咲太が学校で孤立して窮地に陥ったとき救えなかったことをずっと引きずっていてそれが正義感に若干影響してくるのですが、赤城さんがどうなったかやどうやって梓川咲太がそれらを解決したかを含めて詳細は当該書籍を読んでいただきたいのですが、起きてしまったことが赤城さんを含めてその空気を共有してしまったすべての人間に影響を及ぼすことにそっと触れています。

話はいつものように素っ飛びます。

五輪・パラリンピックの開会式を担当する作曲家の一連の騒動を眺めてて、もちろん辞任は相当だと感じていたのですが(解任ではないところに全世界に対して誤ったメッセージを送ってしまった気がしないでもないのだけど)、その問題行為を実行し、告白し、経緯が出版されたことに関して、そしてそれを問題と認識しなかった空気≒是認していた空気というようなものを報道を読みながらうっすら考えてました。もちろん本人が行為に関しての一番の責を負うのは確かですが、しかしこれ、本人や関係者だけの問題なんだろうか?的な。もっとも本人も出版社も声明を出してて、問題を認識しだしたことも・問題を無かったことにしなかっただけでも救いがないわけでもないです。

ただ、問題行為を問題として認識しない空気が当時あったであろうことは確かでそれがどういうふうに形成されたかを含め、やはり怖いな、と思っちまいました。問題行為をした人は学校も違うし年代はわたしよりいくらか上ですが90年代に高校大学だったので妙に引っかかりを覚え、私は偶然そちらに行かなかっただけかもしれなくて・その空気に直面しなかっただけかもしれなくて、もしかしたら(赤城さんほどではないにせよ妙な正義感があるのでおそらく行為そのものはしないとは思うものの)問題を問題と認識しないその場の空気に加担していた可能性もあったわけで。おのれに関係ないことなのだけど、しばらくボールペンの先でビー玉をつつくように報道を眺めててあちこちへ思考が転がっていました。

さきほどから「空気」というあいまいな言葉を書いています。これ、読んでいた上記のラノベの影響で・赤城さんの影響で、そんなもの可視化できず存在があるかどうか不確かなもので、そもそもフィクションを基に事実を眺めるのはたぶん愚の骨頂かもしれません。でもなんだろ、フィクションって、それをきっかけに、あれこれ考えるヒントを与えてくれることってないっすかね、ないかもですが。ヒントを貰ってもたいしたことは書けないのですが。