『先輩はおとこのこ』3話までを視聴して(もしくは「らしさ」について)

藤沢が舞台の『先輩はおとこのこ』(作・ぽむ)というアニメを三話まで視聴していました。面白かったです…で終わらせてもいいのですが、もったいないので書きます。

いつものように幾ばくかのネタバレをお許しください。本作はいまのところ学校では女子として生活しているセーラー服姿の高校生のまこと、それを許容する親友の竜二、一学年下の咲の三人が織りなすコメディです。セーラー服姿のまことに咲がひとめ惚れし告白するところで物語は動きはじめ、真相を説明しますが咲は諦めず、まことは戸惑いつつもけっして咲を邪険に扱ったりはしません(1話)。物語の本筋ではないことをちょっと書くと学校内ではセーラー服のまことは、どちらかというと竜二以外の生徒からは腫れ物扱いです。まことがセーラー服などの女子の格好をしていることについても理由はもちろんあるのですが、誰もが理解をしているかというとそんなことはありません。特に母親からは男らしくあってほしいことを強く望まれ(3話)ています。それらの詳細は原作もしくは本作をご覧いただくとして。

もう幾ばくかのネタバレをお許しください。なぜそうなったのかはやはり本作をご覧いただきたいのですが3話ではまことはセーラー服やスカートやパンプス等を捨てる決意をし、男として過ごすようになります。セーラー服姿で過ごしていた時期と異なり男子の制服では学校で腫れ物扱いされることはなくクラスでも打ち解け、さらに自分に好意を寄せていると知っている咲に交際すら申し込みます。交際を申し込まれた咲がどうしたかは横に置いておくとして(…咲ちゃんごめん)、何もかも順調のように見えたものの、ある夜に目の前のクラスメイトの女子のドレス姿を見て、堪えきれずにウィッグの借用を申し込みます。その後まことがどう行動したかはやはり本作をご覧いただくとして。

いまのところ本作に伏流水のように流れてるように見えるのは「男らしさとはなにか」です。性別が男であるとき「男らしさ」を装備すれば別として「男らしさ」を装備しないと腫れ物扱いされること、くわえて「男らしさ」というものを備えてたとして対人関係でスムーズに行く程度のことしかないことを、本作はフィクションに巧く載せ「男らしさ」の実態の無さを見事なまでに詳らかにしていて、唸らされています。

もっとも、いま簡単に「男らしさ」と書いてしまいましたが男らしさとはなにかというと難しく、2話ではまことがタコさんウィンナーを手に「あーん」というのをするシーンがありますがそういうことは男はしないとかセーラー服は着用しないとかの○○はしないなどの、女性が躊躇なくする可能性がある行為の否定形の集まりでしかないような。

以下くだらないことを。

個人的なことを書くといまから30年近く前に高校の時の文化祭で女装コンテストというのがあり実行委員会であったがゆえに本選に出ない条件で軽いノリではじめて化粧をし、そのときに後輩に「かわいい」と云われて以降は一切私は化粧はもちろん、異性の格好などをしたことがありません。しようと思ったこともありません。ので、まことの考えていることが理解できるか?といったらいまいち怪しいです。

ただ、みたびのネタバレをご容赦ねがいたいのですがまことはかわいいものが好き(2話)で、作品の中のまことを眺めていて、なぜ「男」が「かわいいものが好き」だとそれは変になってしまうのか冷静に考えるとわたしは言語化できずにいました。観ている側にそれとなく問いかけがある、コメディの皮を被った社会批評的な作品のような気が(褒めてるつもりです)。

つらつら思いつくままに書いてみたもののまとまりがなく、くわえてアニメの感想の書き方がよくわからないのでこのへんで。

バテ気味のときの試行錯誤その3

あまり褒められた話ではありませんが卵が苦手です。天津飯くらいはイけますが(つまり甘酢あんかけなどがあればなんとかなる)、生卵系は舌の触感といい味覚といいともかくダメです。卵は完全栄養食で、なので赤だし味噌汁に卵を入れた赤玉だけでも夏バテにだいぶ効くと思うよ、と忠告を受け、先週赤だしベースの味噌汁に卵を落そうとしたのですが、やはりためらっちまっています。

話はいつものように横にすっ飛びます。

昨日は秩父の山の中にいました。秩父でしか栽培できない中津川イモというのを以前食べていてそれを食べることが出来る店に寄ったのですが、今年に入ってからテレビで放映されて人気が出てしまい、7月が収穫期だったのですが下旬に入ったいまの段階で完売でした。テレビの威力って怖いです。でもって代わりに

ひとたまがデカい団子に味噌だれを塗って売っていて、それを買っています。手の込んだものではないものの塗られた味噌ダレのおかげでムシャムシャと食べることができています。食べながら、(舌と脳とが直結してる可能性も否定できないのですが)味噌に酒と味醂を加えて味噌だれをつくってギョウザとか白身魚とか案外イけるかも食がすすみそう…などと想像が膨らんでいました。

報道を眺めてるとまだ猛暑が続きそうで、卵はムリでもくたばらぬようにいましばらく試行錯誤してみます。

石和マルスワイナリー見学

そこがどうなってるのか?という疑問は冒険心が疼くというと語弊があるものの人を惹きつけるものがあるのではないか?という仮説を持っています。甲府のとなりの石和には温泉があって、さらに秘宝館とかストリップ劇場があるらしい…というのは耳学問で知ってはいて、しかし、お年頃のときなら大人になったらこっそり行こうかな…などと思ったことがありますが処女も童貞も失い秘宝館とかストリップ劇場が何を見せるかというのがおおよその見当がついてしまうと惹きつけられるわけでもなければ特に行きたいと強く思う場所ではなくなっています。中央線で山梨行くことがあっても石和で降りることはありませんでした。

話はいつものように横にすっ飛びます。

前にも書いたことがありますが森美登美彦さんの京都とおぼしき街が舞台の『有頂天家族』(幻冬舎・2010)では、弁天という登場人物が赤割という甘味ブドウ酒に焼酎を足したものを呑んでいます。読んで妙に印象に残ったのですが、本みりんに焼酎を足したものを俗に東京では「本直し」京阪地区では「やなぎかげ」といい、そこらへん考えると赤割は別に奇異なものではない(はず)です。お前バカだろ、ということを書くと、作中では桃色と描かれていますが実際にやってみると桃色には不思議となりません。

甘味ブドウ酒の焼酎割が現実の京都でほんとに赤割と呼ばれてるのかは不勉強故に知らないのですが、ブドウ酒の焼酎割は山梨ではぶう酎といい、いま流通してるのは石和にあるマルスという会社が白ワインと甲類焼酎をブレンドハイボールにしたもので、些細なことなのですが製造元がどうなってるのかが気になり

去夏に石和のマルスを見学しています。

ワインは樽で熟成させることが多いので製造元には樽があるのが当たり前ですが

マルスの場合は鹿児島発祥で焼酎も作る会社で甕が笑えるくらい大量にありました。これだけありゃワイン+焼酎という発想が出てくるよなあ、というか。そして興味深かったのは焼酎以外にもワインを甕で熟成させることもしてるようで。焼酎は甕で熟成させるとまろやかになると云われますが、その点でも甕で熟成されたワインに想像力をかきたてられます。

そのほか器具の展示のほか

試飲コーナーと売店があり、肝心のぶう酎も買いました。買ってはいるのですがここでふたたびお前バカだろということを書くと、撮る前にすべて消費してしまってます。なお肝心のぶう酎はやや甘口で口当たりはすっきりしています。

ここではてな今週のお題「となり街」を引っ張ります。

石和の近くに用があり、予約していた帰りの特急まで時間があってそれを奇貨としてマルスを見学しました。石和が目的地のいわゆる「となり街」ではなかったら降りることはなかったと思われます。わざわざそれを目的に行くほどではないけれど、そこがどうなってるのか?という些細な疑問は「となり街」だと解消しやすいような気が。

さて最後に大事そうで大事そうではないことを書いておくとストリップ劇場も秘宝館も石和にはいまはありません。大事なことを書いておくとワイナリーのほか温泉と

ブドウ畑があります

ムクリコクリ(もしくは『東と西の語る日本の歴史』を読んで)

わたしが育ったいわゆる多摩というのは水田がほぼなく、農産物といえば芋類にうどです。そのうちうどはかつて養蚕に利用していた桑の葉を入れる「むろ」と呼ばれる地下室状の空間で育てていて白く、小学生の時分に「むろ」のその光景を眺めていたのでうどの大木というのは白いうどが地下室状のムロから飛び出し地面からボコッボコッと出ていて地面が使い物にならない状況を長いこと想像していました。それが間違いと知るのは童貞を失った頃で、北海道ではうどは山うどといい外で育ち育ちすぎると食用にならずかといって建築にも使えずで、ゆえに使いみちがないことをうどの大木というようになった、というのを異性から教えてもらっています。辞書なり辞典にそう載ってるはずでちゃんと調べなよ、とも忠告を受けていて、あとでことわざ辞書なり辞典を引くとその通りで、ぐうの音も出てません…ってそんな話はどうでもよくて。

話はいつものように横にすっ飛びます。

高校生のときに井伏鱒二の『黒い雨』を読んでいます。作品内でピカドン直後の広島市内の橋のそばで

「おおいムクリコクリの雲、もう往んでくれえ、わしらは非戦闘員じゃあ、往んでくれえ」

と叫ぶ人の描写があります。最初に読んだとき、丸く盛り上がってることをむっくりと呼ぶことを知っていたのでピカドンによる丸いキノコ雲をそう評してるのだと解釈し(そのばあい後ろのコクリはどうなるのだ?となりそうなのですが)30年以上それより深くは考えずにいました。

ところが。 

お題「この前読んだ本」

になるのですが『東と西の語る日本の歴史』(網野善彦講談社学術文庫・1998)という本で蒙古襲来に関連して

偶然の暴風雨がモンゴルによる国土蹂躙から日本を救った結果、西国の人には「ムクリ、コクリ」というえたいのしれない外敵からの恐怖感が残り、東国の人にとっては蒙古襲来自体、遠い世界の出来事として、おそらくはほとんど痕跡すら残さなかったと思われる。(P228)

という記述がありました。

見覚えのある言葉に、あれ、ちょっと待って…とあわてて辞書を引き、ムクリコクリを漢字にすると蒙古高句麗、意味としては恐ろしいもののたとえ、と知り、「あ゛あ゛あ゛」と唸らされています。本来の意味を踏まえて広島市内での叫びを考えると得体のしれない外敵への恐怖から出たものであるはずで、訛りもあるせいかピカドンに対する率直な気持ちの表明としてひどく重いものにいまさらながら思えてきてます。30年以上意味をちゃんととってなかったのは、恥ずかしながらうどの大木同様に、テキトーに解釈し辞典なり辞書なりを引かなかったのが敗因です。いまさらですが辞書なり辞典を引こう、と思わされたというか。

おのれの不勉強は横に置いておくとして。

『東と西の語る日本の歴史』は甲州出身の著者による名古屋の赤だしや鰤など食のエピソードからはじまり、方言の差異、土器の分布の差異、船に乗る西国武士と馬に乗る東国の武士、平将門藤原純友、西国の女系系図に東国の男系系図、年貢における西国九州の米偏重に対する東国の絹布偏重など詳細は本書をお読みいただくとして、日本は単一であるという通説に対してのそんな単純なものではない、という反証が数多く詰め込まれています。そして瑣末なことを書くと私は多摩で育っていますから完全に東国の人間ですがこの本を読むまで「ムクリコクリ」の意味を知らずにいて≒「東国の人にとっては蒙古襲来自体、遠い世界の出来事として、おそらくはほとんど痕跡すら残さなかった」という上記の引用の語句をそのままなぞっていたわけで、辞書辞典を引かなかったおのれの不勉強が網野説の傍証になってしまっています。その点でも個人的には極めて刺激的な読書体験となりました。

他にも書きたいことがありますが、さらなる不勉強の告白になってしまいそうなのでこのへんで。

タレ味の焼き鳥

くだらないことを書くと物心ついたころから焼き鳥はタレ派です。ローカルかもしれないのですがホテイの焼き鳥缶というのがあってそのタレ味が好きで、個人的にはその焼き鳥缶の場合鶏肉よりの充填してあるタレが大事で、はしたないと思うのでさすがに人前ではしませんが箸についたタレを舐めとりたい誘惑に負けそうになったことが何度かあります。

一緒に出かけた先で焼き鳥の屋台があり、小腹が空いていたのでねぎまを買いました。タレと塩、両方あったのですが、わたしは当然タレを選んでいます。でもっていざベンチで食べようとすると、串にまでタレが。仕方ないなあ手についたら舐めとるか、と千載一遇の事態に感謝していたのですが、ほれ、という言葉のあとにあとで手を拭きなという趣旨でティシュを差し出され、残念ながら(…残念ながら?)大人としての体面は保たれています。

身近に居る塩派は塩のほうが素材の旨味がダイレクトに感じられない?というのですが、やはり焼き鳥のタレ味の本質は濃厚な甘いタレにあって鶏肉はそれを味わう付随であって素材の旨味なんて二の次ではないか感を今日も改めて感じててバカ正直に云うと笑われそうなので「いや理屈抜きでタレのほうがいい」と誤魔化したのですが、でもなんだろ、味覚の好みって、理屈抜きなところがありませんかね。ないかもですが。

杖について

ずいぶん前にweb上の知り合いからtootという紳士肌着のブランドを教えて貰ったことがあります。そのブランドのサイトで紹介されてる紳士肌着はそこそこ鍛えたと思われる身体の人がモデルとなって紹介されていて、対して私はメタボとは無縁ではあるものの鍛えているわけでもなくずっと細身のままで、モデルの人が履いているようなものはおれに似合わないな、むしろおれが履いたら滑稽になっちまうかも…と気付かされ、そのときいちども着用したことがなかった勝負肌着を捨てています。ここではてな今週のお題「捨てたい物」を引っ張ると、買うときは良いかもと思えてものちのちその対象物を見て「冷静に考えたら持ち続けるのが滑稽かも」と思えるなら捨て時かもしれぬ、と経験から思うようになっています。

でもなんですがすべてにおいてそうはいかなくて。

いまでもそうなのかは知らぬものの私が小学生の頃には富士山五合目では八角形の杖を売っていて、富士山の頂上には浅間大社奥宮があるのですがその奥宮では参拝するとその杖に焼き印が貰え、非日常の体験をしたせいか子供心に大事にしようと東京へそれを持って帰っています。しかし東京で日常では杖を使う急坂なんてありませんからよくある土産物あるあるで持て余してしまい、部屋の角というか隅のデッドスペースにその杖を棒代わりに渡してみるとちょうどよい塩梅だったので長いこと棒代わりの杖にハンガー等をかけ洗濯物をぶら下げていました。しかし棒と思っていた杖に浅間神社の焼き印を発見した彼氏から「おまえさすがにこれはちょっとどうかと思うよ」といわれ、棒代わりは止めています。この富士山の八角形の杖、使い道がなく持ち続けてるのが滑稽の部類とはっきりわかっているのですが焼き印がある以上燃えるゴミとして捨てるわけにもいかず、かといって杖を返しに富士山頂上の奥宮まで行く時間もファイトもありません。そもそも浅間大社の頒布品ではないので浅間大社が引き取るとは思えず、いまでも部屋の隅に安置してあります。小学生以来その杖を手放せず結果的に護られてきたともいえるようなものなので今後も捨てない予定で、当座ゾンビが襲ってきたときには杖で威嚇するつもりです…って、真面目に書いてきたのに最後がゾンビだとかねえそれじゃダメじゃん

性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律における外観要件についての広島高裁の判断

これからめんどくさいことを書きます。長くなりますがお付き合いください。

【条文について】

性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律」というのがあります。「性同一性障害者」の場合は一定の条件を満たして家裁に家事審判を申し立て、家裁が許可をした場合に戸籍の性別を変更することが可能です。以下、条文をご覧ください

第三条 家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。

一 十八歳以上であること。

二 現に婚姻をしていないこと。

三 現に未成年の子がいないこと。

四 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。

五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

四を読むと生殖機能の除去を前提としていることがわかると思います。趣旨としては性別変更をした当事者が子を産む事態を避けるための趣旨といわれています。念のため書いておくと元女性の男性が女性と結婚し、第三者からの精子提供を受けて子を得ることに法律上の制限はありません。また女性に性別変更した元男性が女性でなかった頃に冷凍保存した精子を用いて性別変更後にパートナーとの間に子を授かった場合そのこと自体は制限がないものの、子からの認知に関する訴訟で子からの認知を認め父子関係を認める判断を最高裁はしています。

【四について】

話を元に戻すと四と五では手術しろとは明示していませんが四に関する運用としては「性別変更に関しての審判のためには手術をすること=生殖機能を除却する手術等が必要」でした。しかし法律の適用のために一定の手術を強制的に課すことになるので

十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

という条文を持つ憲法13条に反するのではないか?という訴訟がいままで無かったわけではありません。平成31年時点では生殖腺機能の除却等は憲法13条等には違反せず、合憲であるというという判断が裁判官4人の全員の一致でなされていました(最判H31・1・23・判タ1643号74頁)。

(過去の判例を覆す場合は最高裁判事全員が参加する大法廷に回付されるのですが)それが覆ったのが手術なしでの男性から女性への変更を求めた事例を扱った去年の10月の最高裁大法廷で、四の生殖機能除去要件について「当事者に対し手術を受けるか性別変更を断念するかの残酷な二者択一を迫ってる」と指摘した上で「社会で性同一性障害への理解が広まってることを考慮すれば社会の混乱防止を趣旨とした生殖機能除去の要件の必要性は低減し(それを維持する)合理性を欠いてる状態になっている」とし、「憲法13条は意思に反して身体への侵襲を受けない自由を保障しており生殖機能除去の要件は過剰な制約で違憲であり無効」という判断をしています。

【五について】

繰り返しますがこの去年の最高裁の判断で特質すべき点は13条に

「意思に反して身体への侵襲を受けない自由」

が含まれるとした点です。

ので、五については外観要件を確実にするためには手術を事実上強いているので「13条に反している」との反対意見を去年の最高裁では3人の判事が述べていましたが(理屈としてはこの3人の判事の意見は極めてまっとうな気がするのですが)、最高裁は審理が不足しているとして高裁に差戻しています。

その差戻の審判が広島高裁で10日にあり、性別適合手術について「身体への侵襲を伴う手術を甘受するか、性別変更の審判を断念するかという二者択一を迫る過剰な制約」と述べた上で「違憲の疑いがあるといわざるを得ない」とし、五の「近似する外観を備えている」とした要件についても「変更後の性別の外性器と特段の疑問を感じない状態で足りる」と指摘し、申立人に限られますが(ホルモン療法により)身体各部の女性化が進んでいるとして、手術なしでの性別変更を認めています。

【個人的雑感】

去年の最高裁、今回の広島高裁の判断で、やはりでかいのは「意思に反して身体への侵襲を受けない自由」が含まれる、という点です。それに沿った形で法改正もしくは今後の運用がなされてゆくことになると思われます。

以下、不安に思われる方がいるかもしれないので書いておくと、性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律の2条では性同一性障害者は「身体的及び社会的に他の性別に適語しようとする意思を持つ者」と定義されています。また繰り返しますが広島高裁は性別変更における外観について「変更後の性別の外性器と特段の疑問を感じない状態で足りる」としていて(結果的にかなり限定的になるとは思われますが)、今後その条件で運用されるとなると、その状態で他の性別として受け入れられたいと考える人が、たとえば公衆浴場等の浴室で他者を困惑させたり混乱させたりというのは、ゼロとは云い切れぬもののかなり稀なケースではないかな、と。