ここしばらくの試行錯誤の続き

前に2週間ほどだけドクタの指示で1日10gの塩分制限をしたことがあります。ところが日頃作る料理、たとえば肉じゃがの塩分なんて把握すらしておらず、途方に暮れたことがあります。夜遅くまでやっている図書館で肉じゃがの塩分まで書いてある(この点、土井先生はマジでぱねぇっす)土井善晴先生の本を借り、しばらくお世話になっていました。

ここしばらく味覚が変で、かといって病院のドクタの指示を破るわけにはいきません。確実に泥縄なのですが二匹目のどじょうを探しに…というかヒントを貰おうとして夜遅くまでやってる図書館でノウハウがあるであろう病院のレシピ集を探し柏の葉の東病院で出してる『抗がん剤放射線治療をしている人のための食事』という本を借りてきています。甘味は変化しにくいのでパンケーキに粒あんを載せてるレシピがあったり、やはりコクは変わりにくいのでオイスターソースを使用したレタス炒飯のレシピがあったり、たぶん自己流で味を濃くしていたら塩分過多になっていたはずで参考になっています。また、苦みを感じる場合にはごまが中和するとあって、いくらか苦味に悩まされてたのでレシピ集にあった白すりごまに酢や砂糖と醤油をあわせたタレなどをそのまま作ったりしていました。

さて、くだらないことを。

先日行った三島で見かけてわさび(右)のほかに買ったのが

わさびゴマダレ(左)です。ごまつながりというだけなのですが、なぜか「これはイケるはず」「蒸し鶏に良いかも」という無根拠だけど確信めいたものがあって手をのばしています。ふとした拍子に無根拠だけど確信めいたものに突き動かされることってないですかね。ないかもですが。

同性2人の婚姻届不受理関する東京地裁の判断についての雑感

これからしちめんどくさい話をします。でも大事なことなので書きます。以前にも似たことを書いたことがありますし、そして、しちめんどくさいことが苦手な方は読み飛ばしてください。要約を知りたい場合は赤字のところをお読みください。

まず前提となる民法憲法の話をさせてください。

婚姻に関する法律は民法の最後のほうにあります。俗に家族法と呼ばれます。その婚姻のところをいくら読んでも近親婚の制限や重婚禁止などの規定があっても同性同士の婚姻について禁止する条項がありません。でも不思議なことにできません。条文を追うと婚姻の効力について規定のある739条に「婚姻は戸籍法の定めるところによりこれを届け出ることでその効力を生ずる」とあります。民法より先に戸籍制度があったのでそれをそのまま利用していて、つまるところ上位法である民法家族法は戸籍法にもたれかかる構造です。その戸籍法等が男女2人の婚姻届提出を前提にしているので、できない側面があります。正確に書くと戸籍法の細かい部分を定めた戸籍法施行規則の付録目録第12号に婚姻の届出に関する様式が定められててそこには(三男とか長女とかを記載する)父母との続柄欄に片方が男、もう片方が女とあるので、どちらかが男でもう一方は女である2人を想定してて、同性二人ではそこに記入不可ですから届出しても受理してもらえません。同性のカップルがもし同じ籍に入るとしたら唯一の手段は養子縁組であったりします。なお婚姻に関して戸籍法と民法のほかに憲法に留意する必要があります。

24条1 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない

2  配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない

24条というのがあって、1項のその語句を素直に読めば両性の合意では確実にない「同性2人の合意による婚姻」は憲法は想定してないのではないか、と思われてました。

ところが夫婦別姓に関する訴訟(最判H27・12・16民集69巻8号2586頁)で、この24条について

「婚姻は当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨である」

最高裁判決理由中で述べています。この最高裁判決理由の考えに立つと24条が婚姻は当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられてる規定であるなら必ずしも同性婚を否定したものではない、とも解釈できないこともないのです。だとすると、民法がもたれかかる戸籍制度および戸籍法施行規則によって婚姻が事実上異性間2人のものに限っている実情は法の下の平等を定めた憲法14条

14条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

に反するのではないか?という疑問が生じます。夫婦別姓に関する訴訟がおそらくターニングポイントになったと思われるのですが、実際に現在、14条と24条に関して同性2人の婚姻を認めない民法戸籍法等は違憲ではないのか?(と同時に国賠法に基づく慰謝料請求も)という訴訟が各地で提起されています。

しちめんどくさい話を続けます。

先行した札幌地裁では「同性愛者が婚姻によって生じる法的利益の一部すら受けられないのは合理的根拠を欠いた差別的扱い」として14条の法の下の平等について違憲と述べ、ただ24条について婚姻は両性の合意のみに基づくとの規定は「両性など男女を想起させる文言が使われるなど異性婚について定めたもの」と解釈して同性2人では婚姻届けを提出できない現行の制度が婚姻の自由を定めた憲法24条には違反しない=合憲と判断しています(21年3月)。

次いで大阪地裁は、(おそらく各自治体が制度として導入しつつあるパートナーシップ制度を念頭に札幌の判断とは異なり)「異性婚が享受しうる利益との差異は解消緩和されつつあり裁量権の範囲を超えているとは認められず」法の下の平等を定める14条に反せず=合憲と判断し、婚姻の自由を保障する24条については明治民法における旧来の封建的な家制度を否定し個人の尊厳の観点から婚姻が当事者間の自由かつ平等な意思決定である合意にのみ委ねられることを明らかにする点にあることを指摘しつつ「両性の本質的平等」などの文言があることなどを踏まえ「異性間について定めたもの」と解釈して同性2人では婚姻届けを提出できない現行の制度が婚姻の自由を定めた憲法24条には反しない=合憲としました(22年6月)。

東京地裁NHKなどの30日現在報道されてる判決要旨を読む限り「同性パートナーと家族になるための法制度が存在しないことは、同性愛の人に対する重大な障害であり、個人の尊厳と両性の本質的平等を定めた憲法に違反する状態だ」と指摘しつつも「どのような法制度にするかは、国の伝統や国民感情を含めた社会状況を踏まえつつ、十分に議論されるべきで、国会の裁量に委ねられている」として、結論から言えば現行制度は大阪と同じく24条も14条も憲法に違反しない合憲という判断をしています。明確に違憲とは云い切らない処理をしつつも、繰り返しますが、同性間2人の婚姻希望者が家族になれぬ状況について24条2項を踏まえて現行の制度の趣旨が憲法に違反してる状態であることを明確に言及しているので、その点においては踏み込んでいます。

ここまで読んでなんとなく察して頂けると思うのですが、24条について札幌や大阪と異なり東京の事例はどちらかというと2項を重視してるのが興味深いです。

なお全く別種の裁判なのですが24条の「婚姻は両性の合意のみに基づく」について「憲法制定当時は同性婚が想定されておらず、同性婚を否定する趣旨とまでは解されない」と宇都宮地裁真岡支部では過去の裁判で判断していて、裁判所によって解釈と判断が割れています。今後も出てくるであろう判決も(建前は)裁判官は独立してるので多様なものがでてくるはずです。

私はセクシャルマイノリティに属します。病院に提出する書類などで私以外の署名が必要なとき親が居ないので彼氏に頼みますが、氏名が違っても幸いなことにすんなり受け付けてくれます。なので、同性婚の制度があったとしてそれを使うかどうかはわかりません。が、やはり若干身近な問題です。おそらく最高裁まで争うことになるはずで、しばらく推移を注視したいと思います。

三島へ(山中城址見学)

箱根の山は天下の剣という歌がありますがその箱根山の東に位置するのが小田原で、その小田原を戦国時代に本拠地にしていた後北条氏は箱根の山の西側の三島へ抜ける尾根筋に防衛のため山中城という城を築城します。今でも城跡が残存していますが天守は現存してませんし日本史の教科書にはまず出てきませんし小田急などが推奨する観光ルートにもなってないので、正直、限りなく無名に近いです。しかしちょっと稀有なところで、先日その山中城址を見学しています。三島の市街地からだいたい30分くらいのところ。

山中城址の西ノ丸のあったあたりの堀ですが、空堀の中に掘り残しがあります。

衝立障子のような形状なので俗に障子堀といい、さきほども稀有と書きましたが後北条氏独特のものです。障子というよりワッフルのほうが近くない?という率直な感想を述べてお前な…と呆れられたのですが、それはともかく。

攻めようとすると掘り残しのワッフルの尾根の部分を歩かざるを得ませんが、狭いので一列に並んで歩かざるを得ません。仮に守るほうからすると一列に並んでいるところに一斉に鉄砲なり矢なりを仕掛ければ倒しやすいわけで。

今は上に植生がなされていますが、当時は粘土質の関東ローム層がむき出しの状態であったと思われていて、粘土質ゆえに滑りやすくワッフルの谷間に落ちてしまったら這い上がりにくく、仮に攻める側だとしらら攻めにくい、すっごくイヤらしい構造です。もっとも秀吉の小田原攻めに際して4万の兵が山中城に対して総攻撃を行い、対して山中城に居た北条側は4千で、残念ながら(…残念ながら?)半日ほどで落城してしまっています。

ワッフルの谷間に落ちるとどんな状態かわかる場所があってよじ登るのはおそらくかなり大変なはず。攻める側としては多少の困難を覚悟の上で「圧倒的な大軍勢でなにがなんでも落としてしまえ」という発想は愚かかもしれぬものの理解できなくもないです。なお関東ローム層はどちからというと固めゆえに戦国時代のワッフル…じゃねえ堀がずっと残ってるものの、念のため書いておくと台風の影響で斜面の一部は修復中で、攻めにくい城も台風には弱いようで。

本来であれば駿河湾天城山が眺めることが可能らしいものの、残念ながらそれらは曇天で叶わず。しかしそれでも山中城址は時間泥棒の場所でした。

さて、くだらないことを。

同じ三島市内の三島大社には頼朝公と北条政子が腰掛けたと伝わる石があります。源氏再興祈願のために参拝時に座っていたことに三島ではなってて、実朝暗殺の史実を知りつつ大河ドラマを視聴しているせいか、眺めてていくぶんか複雑な心境になっちまいました。5月に見たときには史実を知っててもそんな心境にはなっていなくて、それは今回のドラマのフィクションに溺れてるからこそかもしれない、と自覚してます。フィクションに溺れやすいのが歴史についてなにか書くのは危険かもしれないのでこのへんで。

ここしばらくの試行錯誤

先日も書いたとおり術後の点眼薬の影響で味覚障害っぽくなっています。同じものを食べても以前と味が異なるというのはちょっと厄介です。どうしたものかなと嘆いたところで靴屋小人さんが出て来て何かを作ってくれるわけでもありません。ので、ヨーカドーで考える時間が若干増えちまいました。

最近読んだ『その着せ替え人形は恋をする』というマンガの中にアジフライが出てきます(10巻77話)。ヒロインである喜多川さんがダイエット中でそこらへんを考慮して主人公である五条くんが作ったもので、ソースをかけずに済むように大葉と梅肉を入れて揚げていました。酸味があるものは案外ダイジョウブと体感してて、ヨーカドーで上記の作品を思い出し、五条くんに倣って梅肉アジフライも良いなと考えたのですが恥ずかしながら揚げ物が得意ではなく、ゆえに魚に梅肉を使うアイデアだけ流用して鱈と梅干を買い、鱈(とねぎ)のホイル焼きに梅肉を入れてやっています。あんがいイけて、今冬なんどか作るつもりです。考えた挙句にマンガに出て来た料理のアイデアに頼るというのは大人としてどうよ?と思うのですが、結果オーライというか。

紅しょうがを食べてしょうがもイけると体感したので鶏そぼろにチューブではあるもののしょうがを加えてみたりであるとか他にも試しています。予想できなかったことで確実に泥縄です。ただ食べ物はモチベーションにつながるので、しばらく試行錯誤するつもりです。

何度目かのジャムのこと(もしくは今月に入ってからの舌のこと)

何度か書いてると思うのですが・関東ローカルの話で恐縮ですが、関東の人間なので「美味しいシウマイ崎陽軒」というCMを聴いて育っています。崎陽軒のシウマイの味≒美味しいというのが脳内で成り立っていたのですが、崎陽軒のシウマイを評価しないかつての上司を見てから、それが揺らぎました。その体験から「美味しい」というのは「それが美味しい」という刷り込みや思い込み、それに過去の経験が何割かあるのではないか、と考えるようになっていました。

話はいつものように横に素っ飛びます。

ここ2年くらい毎朝リンゴのジャムを食パンにのせて食べていました。それが美味しいと思っていて、プラスして何度も美味しいなあという経験を経ていたからです。ところが今月に入ってから、美味しいと思っていたリンゴジャムを持て余すようになりつつありました。最初に考えたのは新型コロナの副作用による味覚障害です。でも喉も痛くなければ熱もありません。なんでなんだろう?と不思議に思っていました。持て余して捨てるのもイヤなので、リンゴジャムが切れたのを奇貨として元さやに戻ろうと昨日退勤後に大丸で以前買っていた明治屋マーマレードを買っています。そのマーマレードを今朝開けてパンに塗るとほどよい酸味とガツンと来る甘さに惚れ直してます。

でもなんでリンゴジャムを持て余すようになったのか。酸っぱいものが良いならつわりじゃね?と助言になってない助言を受けたものの、残念ながら(…残念ながら?)私はつわりはあり得ない性別です。「些細なことなのでどうでもいいかな」と考えるのをやめて、眼科から出されてる点眼薬を点眼しようとして「もしかして?」と思い至り、点眼後に検索するとビンゴで、先月の手術後に出された点眼薬のひとつの副作用に味覚障害がありました。

薬それも点眼薬で味覚が変わっちまうのを知って・体験して、(変わらずに思い込みや経験もあると思ってるものの)「美味しい」というのはほんと微妙なものなのだな、と思い知った次第です。明確に判ったのはいまのところジャムだけなのですが、とりあえず、工夫してなんとかやり過ごします。

『作りたい女と食べたい女3』を読んで(もしくは善意で囲まれたときの息苦しさのこと)

マンガをたくさん読んでいる人が世の中に居て、昼間働いているのでそれほど読めるわけでもなく、なのであんまり読んでいるほうではない奴が読んだ本やマンガについて何か書くということに抵抗を覚えていることを何度か書いています。ましてやこれから感想を書こうとしているマンガは性的少数者が登場人物です。私もそこに一応は属するのですが頭がゆるく、アセクといった横文字などに疎く根本から理解できてるか怪しいので避けておいた方がよいかな、と思いつつ、なにも書かずにいるのがちょっともったいないので書きます。

『作りたい女と食べたい女3』(ゆざきさかおみ・KADOKAWA it comics・2022)というマンガを読みました。いくばくかのネタバレをお許しいただきたいのですが『作りたい女と食べたい女1』では料理を作るのが好きな野本さんが以前フライドチキンの大袋を抱えていた隣室の春日さんに声をかけたことを軸に物語は進みましたが、3では春日さんに野本さんが宮城式の雑煮を作るところからはじまります(19話)。どんな雑煮を作ったかは本作をお読みいただくとして。

さて、本来ならば料理を作ることや食べることというのはおのれの意思で選択しておのれの責任で行うことが出来ます。もちろん料理を作ることや食べることに関して以外もそうです。3巻ではどちらかというと「自ら選択すること」について掘り下げられています。春日さんが大事な選択をするのですがそれは本作をお読みいただくとして。

3巻では南雲さんというどちらかというと小食の登場人物が出てきます。やはり詳細は本作をお読みいただきたいのですが南雲さんはある選択をして引っ越してきて春日さんや野本さんと知り合いやりとりするうちに、「食べなくてもよい」という選択肢のある世界が実際にあり、かつ、その選択をして≒「食べなくてもよい」を実践して受容してもらえたことを理解するシーンがあります(24話25話)。若干主語が大きくなりますがこの国では善意でたくさん食べさせようとしますし、やはり主語が大きくなるのですがこの国では他人と同じ行動をしないことに関して善意でそれを是正しようとします。南雲さんのエピソードは(ここらへん手に取るようにわかるのですが)あるはずの選択肢を封じる善意をまとったそれらの行動やそれに従いたくない場合の行き場のない残酷なまでの息苦しさを見事にフィクションにのせて描かれていました。

もうひとつ書かなければならないのがいわゆる「グラデーション」の話です。野本さんが自らのことについて自覚をしつつもそれが他の性的少数者の話と若干異なることに気が付きweb上の同性の知り合いにその点について告白するシーンがあり、やはり詳細は本作をお読みいただきたいのですが、そこらへんのやりとりがけっして画一的ではない性的少数者に関するよくある肝心なところを判りやすく説明しているはずです(はずですって書いたのは当事者でありながら私は語れるほど知識がないからです)。

過去2冊と同様に、3巻もドーナツや天かすと豆腐を卵でとじてめんつゆで味付けするたぬき丼の他に、いくつもの料理が出てきます。餅にチーズをのせベーコンを巻くものが出てくるのですが、ほのかな塩気があるはずで真似させてもらおうかな…という気になっています。本作ではさらに餅について未知なる味覚を求めて探求がなされるのですが、コスプレの話メインの着せ恋と同様に「好きなことを追求してる人たちの物語」は眺めているだけで引き込まれます。それがこの物語に別の魅力を与えているような。

今秋、『作りたい女と食べたい女』はNHKで実写ドラマ化されるそうで、できれば南雲さんの話はやって欲しいです。でもどうだろ。

手袋の問題

関東平野は冬になると北西から強い風が吹きます。それを場所によっては「からっ風」といったりするのですが関東の冬の寒さのうちの何割かは風によるものです。関東の田舎者が冬の京都へ行って思い知るのは盆地の風由来ではない底冷えする寒さです。「どうせ寒いならどっちが良いか」と問われたら悩みます。正直どっちもイヤです…ってそんなことはどうでもよくて。

はてな今週のお題「防寒」を引っ張ります。

関東在住なので風が冷たいので防寒のために手袋をすることがあります。しかし電車内では外していて、それをカバンの中に入れればよかったのですがカバンに入れずにいて、そのままうつらうつらしてしまい乗換駅であわてて起き、手袋を電車に置きざりにしたまま降りたことがあります。高浜虚子の俳句に「大いなる手袋忘れありにけり」ってのがあって、正直、手袋がない状態で冷たい夜風に吹かれると「大いなる手袋」の意味がほんと肌身に染みてます(それが安物であったとしても)。でもって、これ、笑いをとるための句ではなく悲しみを詠んでいると推測しています。体験してない人には笑えるかもしれませんが、体験しちまうとちょっと笑えないです。でもって一度体験してしたことによって繰り返してはいません。

子規の句には「手袋の左許りになりにける」ってのがあります。以前は似たようなことが私にも起きていました。特に朝の出がけに片方が不思議と見当たらなくなるのです。手袋の片手が自ら脱走することはあり得ませんから、どう考えても犯人は私です。この点については帰宅したら両手分をちゃんと決まった場所≒定物定位置に置くようにすることによって、少なくとも去冬はほぼ回避できています。もうちょっとスマートにやりたいところですが思いつきません。

さて、冬に手袋をすることが多いからあたりまえかもしれませんが、手袋を見失うのはたいてい冬です。寒風吹く中でないと困るものを落としたり見失ったりしてるうちに、「もしかして私は冬になると注意力散漫になるのではないか」と思っていました。

でもなんですが。

虚子や子規の句を眺めてるとわれわれ日本人はもしかして手袋を落としやすい・見失いやすい残念な民族なのではあるまいか?冬になると注意力散漫になる民族なのではあるまいか?と思えて仕方ないのです。それが民族特性だとするならば私が手袋を忘れたり見失ったりするのもやむを得ないかな、と(異論は認める)。