12位牡羊座

たぶん前にも書いているはずなのですがここ数年わりと悲観的に予測するようになっていて、それを踏まえて準備や根回しをしたりします。それはヒラメ…じゃねえ、加齢によるものなのかどうかはわかりません。(進路はおのれの手で拓きたいので重要ななにかを誰かに教えてもらいたいという意識が希薄で)基本的にいつも占いは気にしないのですが、よりによって出勤時に占いを目にしちまってます。牡羊座は最下位でした。今日、7月の小さなヤマのひとつがあったのでより悲観的になってしまい、目にしなきゃよかったと思ってもあとの祭り。

とはいうものの、事前の根回しや準備が功を奏して結果として小さなヤマをこえることができてます。うむ、なんとかなったな、と思ってたものの、気が緩んでしまったのか退勤時に柱にぶつかりました。私は右目が悪いので何年かに一度やっちまいます。誰もいないかったのが不幸中の幸いです。占いは気にしてないのですが、なんだろ、妙に悔しかったり。

海について不思議と思うこと

百人一首をテストで記憶しなければならないのにその百人一首は10代の私にとってわけのわかんないものがけっこうありました。歌人になるわけでもなく読解力や想像力が低いことがバレるとしても匿名なので痛くもかゆくもないので続けます。「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」ってのがあります。潮が引いても見えぬ石のように誰も知らぬ恋のおかげで袖が濡れ乾く暇がないのです、というような意味(のはず)なのですが、風雅に欠ける無骨な東男で海に縁がない多摩の人間にはそもそも潮干というのがぴんときませんでした。もちろん古語辞典を引けば引き潮ってかいてあります。でも家族で海水浴へ行ったことがなかったくらいなので潮の満ち引きというのを見たことなど無く当然拙い想像でしかなく、どういう現象なのかほんとはわからぬまま、容易に理解できない語句を含んだ短歌を選んだ藤原定家への殺意を抱きながら機械的に覚えてました。

話はいつものように横にすっ飛びます。

潮の満ち引きということがどういう現象かを理解したのは誘われて千葉の九十九里へ遊びに行ってからです。ボードを借りて波乗りの真似事をしてるうちに時間が経過して気が付くと砂浜が前よりすこし狭くなり波打ち際が移動してるのが理解でき、それらを目の当たりにすると藤原定家への殺意はいくらか軽減しています。

そのとき空には月があって、ああこれが満ち潮なのかと理解しました。月の重力が海面に作用して潮の満ち引きが起きるというのは理屈として知ってましたがいざ目の当たりにするとなんだか不思議だなと思っちまってます。(ええかっこしいなので潮の満ち引きに関心を持つきっかけとなった短歌や藤原定家への殺意を伏せながら)潮の満ち引きをはじめて見たこと+潮の満ち引きについて理解できたこと+でも不思議に思えたことを正直に告白するとその日の夜に「夜の海もみとこうか」と連れられて夜に海へ行くと、音は昼とたいして違わないんだけど海はもちろん青くなく暗闇の中に白い波がうっすら見えて同じものを観てるはずなのに光の有無でこうも見え方が違うのか、と書くとあたりまえのことなのですが、やはりそれも不思議だなと思っちまっています。恥かきついでにもう少し書くと波に乗ることを覚えてからに秋でも海水がなかなか冷えないことを経験しています。海水は大気より比熱が高いことを知り海水は大気に比べてあたたまりにくく冷めにくいという理屈をあたまでは理解でき、夏場に温められた海水が秋のはじめでもまた温かいということについて理屈はわかりつつも、不思議だよなあ、という体感が先行していました。だいぶ前のことなのだけど、これらの経験が強烈で、いまでも海≒不思議というのがどこかあります。

潮の満ち引きから脱線してしまったのですが、未知の状態から海のことを理解しつつ、理解しても不思議という言葉が出てしまうのは、理屈など言葉では説明がつくのはわかってるのだけど、現象が目の前で提示されると説明などの言葉を受け止めきれず根っこでは「いっちょんわからん」で済ませてしまいたい底が浅い反応なのかもしれません。

はてな今週のお題が「海」です。東海道新幹線では熱海のあたりで相模灘を眺めることができます。気がついて眺めることができるとちょっとだけテンションが上がります。見逃すとちょっと悔しい。海を眺めるとテンションが上がるのはもう40半ばなのでヤメにしたいところです。おそらく海を眺めてテンションが上がる理屈としてはおのれの児童性の表れかもしれぬのですが、でもおのれの児童性を受け止めたくない・どこか認めたくないのでそれを封印して、最近は熱海で海を眺めていくらかテンションが上がることを自覚しても「海を眺めてテンションが上がるのは不思議だよなあ」とだけ浅く考えるようにしています。これを書いているわたしはそういう浅い考えを選ぶので書いてる文章も浅いです。深いことが書けぬ悔しさで袖が乾く間もない、とカッコいいこと云いたいところですが、いま着てるのはタンクトップであったり。

購買記録

セールのときを中心に伊勢丹で買い物をすることがあって、伊勢丹のカードを持っています。正札ではあまり買わないという購買記録が残ってるはずで伊勢丹側でこちらが関心ありそうなセールのダイレクトメールを送ってきます。そのセールにつられて伊勢丹でまた金を落とすのですから、伊勢丹からすればチョロい客かもしれません。きっと伊勢丹はわたしのようなチョロい客をたくさんつかまえててその顧客の購買記録のデータは膨大で、それらをうまく駆使していまの伊勢丹があるのだろうな、と思います。

最初nanacoが出来たとき、nanacoで決済した購買記録が欲しいのかな、と推測していました。8のつく日に近くのヨーカドーが値引きになるのにつられて作ってます。十二指腸潰瘍のあとヨーグルトを積極的に買うようになっていて、その結果ヨーグルト好きという認識なのかたまにレジでヨーグルトの値引きクーポンが一緒に出てくるようになりました。たぶん購買記録をつかってそういう分析をしてるのでしょう。そのクーポンをつかってヨーグルトを買うわけでヨーカドーにとってもわたしはチョロい客かもしれません。でもって7payはヨーカドーで使えそうにないというのを知って手を出さなかったのですが、おそらく欲しいのはやはり購買記録でしょう。セブンの幹部にセキュリティの知識がないことについて報道されていましたが、セブンの主眼が「新しい決済手段を作る」ではなくて「顧客が何を買ったかを知る」であれば主眼から外れたセキュリティについてセブン側の幹部が関心が低くても不思議はない気が。個人的にはこの先も手を出すつもりはないのですけど。

くだらないことを書きます。ジャケットを伊勢丹で買うことやヨーグルトをヨーカドーで買うことの記録が残っても別に恥ずかしくないのですが、ここ2か月の間に買った青ブタの原作は短めのスカートから悪魔のしっぽが出てくる女子高生やパンダの着ぐるみを着た中学生が表紙で、さらに題名にバニーガールとかシスコンという名詞が入ります。多少の気恥ずかしさを押し殺してレジを持って行くことはできても、書店員さんがそれをみて顧客分析をするわけではないと思いつつも住所氏名などがわかるポイントカードを書店で提示すること・購買記録に残すことに若干のためらいがあってできませんでした。小心者です。

玄界灘の血を糧に

歌の話をひっぱります。

人は風呂場などで機嫌がいいとはなうたを歌うことがあります。わたしは「いざゆけ若鷹軍団」です。特段ホークス贔屓ではありませんが、いまはイオンになってるダイエーで、ホークスの応援歌が流れていたことがあって、何回も繰り返し聴いてると内容を理解する前に覚えちまってます。特段、鷹党でなくても・好きではなくても「玄界灘の血を糧に鍛えし翼たくましく」とふとした拍子に・機嫌のいいときに歌っているようになっていました。しかしいくつか謎があって「玄界灘の血を糧に鍛えし翼たくましく」というのがかすかな違和感があって、血を糧にするのは鷹じゃなくてドラキュラだよな、とか勝手な感想を持っていたのですが、視聴した博多祇園山笠の勇壮な追い山の映像を眺めてるうちに「ああこれが玄界灘の血か…」とどこか納得していました。あんな血気盛んな人たちに愛されてるんだから強くもなるよな、と。でもかすかな違和感がなかなか完全には消えず、かなり経ってからナイツではありませんがyahooで調べてます。調べた結果、われらのダイエーホークス玄界灘の血を糧にはしておらず、若鷹軍団玄界灘の潮風に鍛えられていたことが判明してます。いちばん聞いているであろう鷹党ではない彼氏が間違いに気が付かないで・他の人の前で歌わないでいて、恥かかずに・ダメージを受けずに済んでいるのが不幸中の幸いです。

私の頭はいくらか思い込みがあって正確でない記憶をするところがあります。玄界灘の血の糧のことがあってからは記憶してることは違和感があったらyahooで調べなくてもなるべく原典にあたるようになっています。

忙しくて手に取ってなかった青ブタの原作を読むのをここで少しだけ再開してて、そのなかで双葉理央という登場人物が、事実よりもそれをみた人間の主観が左右されることについて触れてて「人間は見たいようにしか世の中を観ていない」と述べてて、それを読んで玄界灘の血の糧についてなかなか調べもしなかったおのれを想起して、妙に腑に落ちています。気をつけないとなあ…。

短歌の効能

きっと繰り返しかいていることなのですが。

百人一首の中に「あいみてののちのこころにくらぶれば昔はものを思わざりけり」ってのがあります。百人一首を覚えなくちゃいけない課題のあった10代の頃、つまり、わけのわかんないのをたくさん選びやがって!という藤原定家に殺意を覚えていた頃、正直「なんのこっちゃ」でした。数年を経て童貞を失っておよびうしろの処女を失って(よいこのみんなはわかんなくていいです)から、脱がされる・脱ぐことはわかってるのにその頃からパンツ・勝負パンツというのを気にするようになっています。以前はそんなこと気にもしてなかったことを考えると「昔はものを思わざりけり」だったわけで、ああおのれの変化を歌ったものであったのか、と理解しました。機械的に覚えたことが血肉になった瞬間です。

お題をひねって好きな短歌を語るとしたら、「昔はものをおもわざりけり」の歌であったりします。

この経験からもしかして短歌というのは体感したことを書いているのではないか、と仮説を立てています。とはいうものの法学部に入ってあほうがくぶ卒で、あってるかどうかはわかりません。ただはてなハイクがあった頃、日本語を操る能力に自信がなかった頃にリハビリを兼ねて彼氏と伊勢に行ったときの経験を短歌のスレに投げてて

内宮のそばで求めし鮫小紋誰に渡すのその伊勢土産

とか書いていました。文学と縁がありませんから短歌が短歌たらしめるのはなんなのかというとさっぱりわかりません。短歌になってるかどうかもわかりません。でもおのれのいくらか黒い感情を知れただけでも短歌に触れた価値はあったのかなあ、と。

続・まぶたのオレンジ問題

あまの原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも、というのが百人一首にあります。短歌を理解するのには歌われてる状況を想像するのがいちばんかもしれませんが、小倉と云えば小倉餡で三笠と云えば文明堂のどら焼きしか知らぬ東京の人間にはムリな話で、この歌は文明堂のどら焼きの山の向こうに月が出てることを歌っているわけではないと悟りつつ、関東の人間に理解しにくい歌をいくつもいくつも選びやがってと藤原定家への殺意が芽生えていた時期が10代の頃にはありました。ほんとに腑に落ちる理解できたのは奈良へ行って奈良の東に三笠山というのがあるというのを確認してからのことです。

いつものように話が横に飛びます。

10代の頃に女性アイドルではなくて光GENJIの曲の「太陽がいっぱい」に妙に惹かれていました。しかし前にも書いたのですが歌詞が理解しにくく、百人一首を理解するときに使ったように状況を想像したいのですが、30年近く経たいまでも納得のいく解にたどり着けていません。以下、一部抜粋します

みんないつだって自分に精一杯拗ねてちゃなにもおこらない

水着をほどいたら砂がこぼれてく

まぶたのオレンジはずませてごらん

幾千分もの奇跡を超えて巡り合った夢君にしかわかりあえない

これからそこまで泳いで瞳をさらいに行くのさこの夏にこのときに

太陽がいっぱい

光GENJI太陽がいっぱい

そのまま読むと水着をほどいたら砂がこぼれ、まぶたのオレンジを弾ませるべき状況になった、ということがわかります。でもまったくなんだかわかりません。

一番よくわからないのは「まぶたのオレンジはずませてごらん」で、ほんとにまぶたにオレンジを置いて何らかの方法で弾ませたら痛いに決まってますから、実際にまぶたでオレンジを弾ませることは考えにくいです。 だとするとなにかのたとえかもしれぬのですが、アイメイクがオレンジなのではないか、という仮定をいまはします。オレンジ色のアイメイクをして一時的に目をつぶったのではないか≒まぶたのオレンジが弾んだ、というのが考えられるのですが、「君にしかわかりあえない」というのがあるので、2人いるはずのどちらかがそうしたはずです。「水着をほどいたら」があるので、目をつぶる理由はそれしか考えられません。でも人前で水着をほどくか?と云われると若干の疑問がないわけでもありません。しかし「これからそこまで泳いで瞳をさらいに行くのさ」というのを考慮するといくらかの距離があるわけで。以上のことを勘案すると、ある程度の離れた距離に2人いて、片方が水着をほどいて(脱ぎ捨てて?)泳いでもう片方のところに行く途中で、もう片方は驚いてオレンジのアイメイクをしててまぶたをぱちくりしてる、という状況が考えられるのですが。…って、なんだろ、つじつまはなんとなくあうものの・情熱的と云えば情熱的なんだけど、歌詞を追えば追うほどアイドルが歌うような曲ではないどこか変態チックな解釈になってしまうのです。私が変態の部分があるからそういう解釈になってしまってるのかもしれませんが。

わけわかめでも作詞の大江千里さんに殺意を覚えないのは歌詞がわからなくても小気味よいメロディとトリッキーなリズムに惹かれたからかもしれません。はてな今週のお題が「わたしの好きな歌」なのですが、歌って歌詞について完全に理解してなくて惹きこまれることってありませんかね。恥かきついでに書くとスピッツのロビンソンも好きなのですが歌詞が完全によくわかってなくても惹きこまれちまっています。

お前

よく野球の話と政治の話はタブーといいますが、野球の話をちょっとだけ。中日のチャンステーマのサウスポーの中の「みなぎる闘志をふるい立てお前が打たなきゃ誰が打つ」という歌詞のお前という言葉は選手に失礼では?という問題提起の記事を読んで、お前というのは同等とか目下に使う言葉でもあって、確かに技能を持つ人に対しての敬意があれば「お前」って云わないよなあ、云われてみればそうだよなあ、と妙に腑に落ちています。

いつものように横に素っ飛びます。

カイシャに入って間もない新人だったころに大阪に放り込まれ、怖い先輩のそばで仕事をしたときしょっぱなは名乗っても「東京」とか「お前」と呼ばれてたのですがその日のうちに「名前覚えといたるわ」と云われて再度名前を名乗ったことがあって(なんか失敗したかなと直後はびくびくしたものの)翌日以降ちゃんと覚えて貰えて、名前を呼ぶというのはその他大勢じゃなくてちゃんと個人として・一人前として認識してるよ、という意味を理解しています。その経験があるので私は他人に対して「お前」はまず使いません。他人に対しても知ってる人にはできうる限り名前で呼ぶことが多いです。「お前」じゃなくて選手を名前で呼んでやってほしいという与田監督の発言趣旨は理解できますし、たぶん選手も喜ぶでしょう。

とはいうものの。

オリックスに「欲球根性~河内のオッサンの丑~」というチャンステーマがあります。

気合やでここまでぶち込め(来いやー)

お前のボールが欲しいのは(わいやー)

ここらで打たんとわて泣くで(おいよー)

とびきりでらいの持ってこい

おもくそごついの持ってこい(ここやー)

 「欲球根性~河内のオッサンの丑~」

という内容なのですが一番最初に聴いたときにはつい吹き出しちまってます。詩に必要なものがなにかと云われるとわからないけど欲球根性は河内のオッサンが大阪ドームでの試合展開をハラハラしながら苛立ちとともに見守っている光景が手に取るように想像でき詩として成立してる気がしたのですが、ってわたしの解釈はともかくとして、もう5年近く愛され歌われ続けています。「ここらで打たんとわて泣くで」というのがあるので「とびきりでらいの」もしくは「おもくそごついの」を打てることが前提でさらに根っこがおそらく懇願調だからいままで誰も問題にしなかったのかもしれません。お前という言葉はいまの時代にそぐわず好ましくないかもしれないのですが、怒られそうなことを書くと・矛盾したことを書くと、個人的にはよくできてると思うので欲球根性のお前はできれば見逃して欲しいなあ、というのがちょっとあります。でも難しいかなあ…