光明

税務署に確定申告をする必要があってそれまで紙でやっていた軽い経理の作業をExcelに置き換えるために自費でパソコンを買ったのがたしか2005年くらいです。そのあとインターネットに接続して最初は徳島や高知のバス会社の時刻表を調べたり仏教系のサイトを眺めてました。そのときの印象が強くていまでもどちらかというとインターネットというと調べ物をするための巨大な辞書的なイメージがあります。くだらないことを書くと(インターネットに触れ始めたころではありませんが)検索してはじめて知ったこともあります。童謡にドボルジャークの新世界のメロディをつかった

遠き山に日は落ちて星は空をちりばめぬ
今日のわざをなしおえて心かろくやすらえば
風はすずしこの夕べいざやたのしきまどいせん

ってのがありますが、「まどいせん」が謎で、氷鬼みたいなゲームのようなものがあって、「きょうのわざ」というのは鬼ごっこのようなものを逃げおおせたことで、つかまんなかったから「こころかろくやすら」かで、風は涼しいからああたぶん夏休みの夕暮れで、これは夏休みに誰かが田舎へ行って遊んだことをうたってるのだというダイナミックな解釈を7年くらい前までしていました。検索して長年の謎が解決してますって書かなくてもいいてめえの無知は横に置いておくとして。はてな今週のお題が「わたしのインターネット歴」なんすが、最初はともかく調べるツールでした。
しばらくの間は、調べたり閲覧するだけで、ネットになにかしら書こうなんてことは思ってもいませんでした。なんのことはない、法学部に入りながらまちがってあほうがくぶをでたので上の童謡の文章の意味すらきちんと理解できない程度の必要最小限の教養に欠けてるところがあります。またいまでもそうなのですが、文章がヘタです。なので「教養があんまりないような文章がヘタなヤツが書いたとしてそんな低レベルなものを誰が読むねん」と怪しげな摂津弁で決めつけていました。ですからブログというアイテムを知ってもちょっと躊躇してました。しかし文章がヘタであったとしても・誰が読むかはわからないとしても、書かれた文章から意味をとったりそこから思考をふくらますのはたいてい読むほうであって書く方ではないよな、と方針を変え、深くは考えないまま書きはじめてます。深くは考えずに書きはじめあとで気がついたのは(文字にしてしまえばあたりまえのことなのですが)ネットに書くということは頭の中のことを見ず知らずの他人と共有できるように考えて文章を構築することであって、勤務先の内部文書と違って姿の見えぬ他人と共有できるように文章を構築することは(文章を書く方と読む方とが同じレベルでないときちんとした意思疎通ができないし、共通の基礎知識があるわけではない)より他人を意識せねばならず単純に頭の中で考えるよりも深く考えねばならぬということで、「うわあ、めんどくさいことに手を出してしまったな」感がいまでもあります。めんどくさいことから撤退してないのは深く考えることを止めちまったらただでさえバカなのがよりバカになるかもしれない、という恐怖感からです。ですから第一義的にはいまはおのれがいまよりバカにならないために続けてるわけで、有名ブロガーになろうとも思っていません。もちろん儲けようとも考えていないのでアフェリエイトもやっていません。「ああこんなバカが書いてるの」か、としげしげと眺められるのもイヤなので(もちろんそれだけが理由ではないのですが)オフ会にも不参加ですし、身バレしたら閉じようとは考えていますが、それまでは継続するつもりです。
ところで途中からおのれの性のことも書きはじめてます。私はいわゆるLGBTに属しますがゲイタウンとは無縁です。しかし書くことによって縁ができ、か細いながらもLGBTの知り合いが増えました。ただしいちどもあったことはないです。でもそのWeb上での付き合いの友人に「そこが熱を持ってる状態で、勝負パンツの上から彼氏に揉まれたとき、ちょっと待てーそのパンツ高いんだ、脱がせてくれって思ったことない?(よい子のみんなはわかんなくていいです)」ってなことを訊いたことがあります。笑われながら・呆れられながらでもわかるわかるって賛意をもらって、おっそろしくくだらないことなのですがその賛意はことばとして妥当かどうかはわからないけどなんだか嬉しく「ひとりじゃなかったんだ」ってことを思い知りました。インターネットというのは、実質的に孤独ではないかもしれないものの別の意味で孤独であった私に光をもたらしたランプのようなところがあります。いま誰が読んでるかも(一部を除けば)ほぼわからないものの、誰かが読んでいるという実感が、いまでも私を照らしている側面があったりします。なので夏バテしつつもムダにネット歴だけは途切れることなく重ねています。