それじゃダメじゃん

それがどうしてそうなったのかの由来はわからないけれど男性の同性愛に関してのネコというスラングがあります。品のない言い方をすれば挿入される側(よいこのみんなはわかんなくていいです)のことですが、それを理解していない段階で、仮に「私はネコです」(よいこのみんなはわかんなくていいです)といったら「こいつ頭おかしいんちゃうか?」ということになりかねません。言葉というのは「書くほう・話すほう」と「読むほう・聞くほう」に共通認識が無いと、てんでわけわかめになりがちになります。言語による意思の疎通ってむずかしいのではないか、というような認識を強く持ったのはインターネットをつかいはじめ、はてなというどろ沼に嵌ってからです。

これから書くことはなんべんも書いてることで、しかしおのれにとってはすごくコアな事柄です。

はてなにはいまは無い「はてなハイク」というサービスがあって、そこでのことですが、日本語で書かれている文章にもかかわらず、意味がわからないことが複数回ありました。

たとえば「最初に断定があって結論があってそれしか述べず、断定があるゆえに結論に至るまでの経緯に触れてないので、なんでそうなるのかがよくわからない」というケースです。厄介といえば厄介なのですが、それほど消耗しません。

別のケースは、先に書いたネコにつながるのですが「書くほうと読む方に同程度であると誤解して、説明を省いてしまうので、同質性がないからちんぷんかんぷんになる」ケースです。これ、同じ程度の知能の知識と思われてるのは光栄なのかもしれません。が、それがどこかで読んだ他人の知識を前提にされてしまうとお手上げで(≒自分の知識ではなくて他人の知識をそのまま借りて組み立ててる場合は自家薬籠中のものになってないのでその人の言葉でこちらにもわかりやすくかみ砕いてもらうことが望み薄なので)、こちらとしては悲劇で、ひたすら正解あてゲームをしなければならないと気がついて消耗して精神的につらくなってきたので、ちょっとずつ離れていってます。この事象を裏返せば、同質性がある人同士が交流するには、インターネットや☆をたくさんあつめることが良しとするカルチャーのあるはてなは適した環境かもしれません。それに私は適応できなかったわけで。こう書くと私の印象はトモダチが少ない・話題に入れない、哀れな頭の悪そうなやつになっちまうのですが。匿名のインターネットではそれでも生きて行けます。ビバ!インターネッツ!!

でもって、はてなハイクでそういう他人が書いた文章の意味がわからないという経験をすると、おのれの書く文章も他人が読んでも伝わらないかもしれない可能性というのをやはり考えるようになって、どうやったら読みやすい・意図が伝わりやすい・読んでる人が困惑せずに済むような文章になるかを考えて試行錯誤しています。しちめんどくさいといえばしちめんどくさいです。しかしその作業を止めたら私が自主的に離れた人と同じになってしまうのではないか、という恐怖があって、しちめんどくさいことを続けています。もっとも、しちめんどくさいことを続けて効果があったかはわかりません。文章を読んで「読みやすい」と気がつくのはたいてい読んだ人で私ではないから効果のほどがわからないです。それじゃダメじゃん。でも続けています。

さて、今週のはてなのお題がはてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」で、つらつら書いてきたのですが、しかし、インターネット文学ってなんなんすかね。

大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」

 というのが夏目漱石の「吾輩は猫である」の中にあるのですが、大和魂をインターネット文学に置き換えても置き換えても通用しちまいそうな気が。