たぶん何度か書いていることを今日も書きます。
以前MXで放映されていたアニメのゆるキャン△という作品は山梨が舞台です。実は山梨は東京と言葉がいくらか異なります。たとえば「しょうもない」というのが「だっちもねえ」で「しょうもないこというな」だと「だっちもねえこんいっちょし」です。物語は斎藤さんや志摩リンなど山梨勢がけっこう登場するのでリアリティを追求して山梨勢2人だけだったら甲州弁をしゃべらせてもいいような気がしますがそれだと山梨県民以外にはわけわかめになってしまうはずで、そのせいか残念ながら(…残念ながら?)物語はほぼ標準語で進み甲州弁はまず出てきません。真面目な話をすると言葉が伝わるということの根本は、喋るほうと聞くほうが・書く方と読むほうが、同質性があることが前提で、それががないと意味が通じないはずです。
じゃあ甲州弁以外で書かれた、読む方と書く方が相互に理解できるはずの標準語と思われる文章だったら誰にでも意味が通じるか?というとかつては通じるだろうと思っていました。ところが、以前はてなのサービスではてなハイクというところがあって、そこで標準語で書かれた文章を読んで、まったく意味がわからなかったことが複数回あります。
いちばん単純なのは、最初に断定があって、そしてその断定があるゆえに強く、あるのは断定のみで説明があったとしても説明になっていない場合です。その人の中ではそれで完結してるのだけどその人と同じではない同質性が無い第三者からすると文章を読んでも「なんでそうなるのかがわからない」ので、なんべん読んでもわかりませんでした。
もうちょっと深刻なのは、文章を書く方からすると「わたしが判るんだからこの人もわかるはずだ」という仮の前提を基にして同質性があると想像して言葉を省く場合です。読んだこちらがどういう意味かわからなかった語句を質問すると書いた側が前に読んだ私は読んでない本から引用した語句で、その人が深く考えて捻り出した自己の言葉ではないので説明を求めてもいまいち要領がつかめず、最後まで理解が追っつかなかったことがありました。
これらのことを単純に書けば、(複数いるのですが)文章を書いた側と読んだ私が同質性を持てなかった、といえます。逆から見れば、同質性の無い他者の存在がその人たちの脳内には無かった、ということになります。それはそれでその人たちが悪いわけではありません。ただ、同質性の無い私がその人たちの文章を読み続けることは「どういうことなんだろう?」と永遠に正解当てゲームをしなければならないことに気が付いて、距離を置いています。なお名誉のために書いておくとそれらの人のTwitter…じゃなかったXにはたくさんフォロワーが居ます。
以上の経験をして理解できたのは、甲州弁でなく標準語で書いたとしても、他の人との同質性があまり多くは無い以上他人の書いたものが理解しにくいことがあることの反対として、私の書いたものは注意深く書かないと誰にも伝わらない可能性が高い、ということであったりします。そもそも属性が性的少数者という点もありますから他者と同質性があるかというとやや絶望的です。それらに気がついてからはできてるかどうかは別として些細なことなのですが「おのれの属性とかなり異なる人が読んでもわかるように書く」というのをおのれに律しています。
さて「おのれの属性とかなり異なる人が読んでもわかるように書く」ことなどを意識するようになると、書くこと≒あれこれ考えることでもあることに気がつき、書くこと止めると考えなくなる、つまりバカになるのではないか?という恐怖も論理の飛躍は承知ででてきています。ここで特別お題「わたしがブログを書く理由」を引っ張ると、書くことはバカにならないためであったりします。記事の有料販売とかはてなで告知してるのは知っていますがそんなレベルなので手を出すつもりもありません。偶然ここにたどりついてしまった、おのれの属性と異なる人が・おのれの属性と同じ人が、たまに覗いてしょうもないことを書いてる文章を読んで「だっちもねえ…」と思ってくれれば十分であったり。
ところで。
アクセス解析の類はあまりチェックしません。ただ今夏、ここ数年ずっと追っている青春ブタ野郎シリーズの映画があった影響か、青ブタについて書いた記事が多くの人に閲覧して貰えていたことを先月末チェックしたときに知りました。青ブタについての文章は毎回気合を入れて書いていて、しかし想定外だったせいか「ぬおおおお」という唸り声がそのとき出ています。第三者にもなるべくわかりやすい言葉をつかうということをおのれの課していても、想定していなかった嬉しい事態が起きると、第三者からしたら意味不明な言葉を口走ることってないですかね…って、そろそろ「だっちもねえこんいっちょし」と見放されそうなのでこのへんで。