事実をそのまま書くとあとで読み返すのがキツい、かも

たぶん似たようなことを前にも書いているはずなのですが、おのれにとって重要なことなのでやはり書きます。

私は間違ってあほうがくぶを出たクチですが、法学部で教育を受けた人の文章には稀に「思うに」という言葉がでてきます。「思うに」以下自説を述べていてそういう教育を受けたほうからすると、人は脳内で考えていることを文章にすることが出来ると理解しています。なので文章というのは書いた人の脳内の縮図なのではあるまいか、という意識が私にはあります。

さて、他人が日本語で文章を書いているけどその文章がちっともわからないという事態に直面したことが数年前にありました。書く側と読む側に特定の言葉の理解についての同質性があれば別として・推論を含む同程度の読解力や文章作成能力を同じ程度持ってれば別として、そうでなければ齟齬をきたす、つまり行き違いがあったり、書かれた文章がちっともわからなくても不思議ではありません。そこでおのれに文章を読んだり書いたりする能力がないと諦めればよかったのですが、なぜそんなことが起きるのかということを考えちまっています。話が厄介なのですけど文章が脳内の縮図であったと仮定して、「他人が理解できない言葉」を存在させてしまったとき、それを書いた人は「他人がその文章を読むことを前提にしてない」もしくは「他人が自分の言葉を理解できないことが理解できない」かのどちらかです。文章が脳内の縮図だとして、つまるところ、他人が理解できない言葉が出て来たとしたら、その人の脳内に自分以外の他人が存在しないかもしくはおのれにとって都合のいい他人しか存在していない状態に等しくなります。それらが齟齬をきたす原因だとして、それらを個人の問題だとすれば話は早いですが、誰もがその状態に陥るのでは?と考えちまうと私が書いている文章も他人が理解できない可能性を秘めてることに気が付き、齟齬をきたしたことを反面教師と心得てちょっと鍛えなおさねばならないと決めてます。詩とか小説を書くわけでもなくチャッカマン…じゃねえ、ライターでもないので文章を売って生活してるわけでもないものの、他人に説明しなければならない場面というのが実生活ではけっこうあるからです。

ここではてな今週のお題「日記の書き方」を引っ張ると、このダイアリは誰もが読める状態にしてあるので、同じような教育を受けてきた人が読むとは限らない・同じレベルの知識を持ってる人が読むとは限らない、というのをかなり意識して、(出来てるかどうかは別として)なるべく誰にでもわかりやすく書くように心がけています。かなりめんどくさいですが、(正確に書けば一人ではなくて複数いる)反面教師とした人と同じになりたくないという意識がそうさせています。

最後にどうでもよいことを。

目の前で起きたことをここでなるべく事実をそのまま書いてしまうことがあります。なので、先日手袋のことについて書いたら関連記事に手袋の片方を見失った過去のおのれがそこにいました。意図せぬところで過去のおのれに出会って悶えたのですが・私は読解力や文章作成能力が決して巧くない上に記憶力が万全ではないことを改めて知って悶えたのですが、後悔はしてないものの、日記って事実に基づいて書いても良いけどその場合はつくづく読み返すものではないなと思わされました…って、せっかくよい感じに日記について書いてきたのに、それじゃダメじゃん