『司馬遼太郎で学ぶ日本史』を読んで

司馬遼太郎で学ぶ日本史』(NHK出版新書・磯田道史・2017)という本を読みました。司馬遼太郎作品のすべてを読んでいないのと磯田先生が書いたとはいえ作品を通して日本史を眺めてなにになるの?というひねた見方をしていたので買っておきながら長いこと積んだままにしていました。正直、積んだままにしておいたのは失敗だったかな…と積んだままであったのを反省させる程度に刺激的な日本社会批評の本です。

話がのっけから脱線して恐縮ですが、さすがだなあ…と思わされたのは司馬作品を一冊も読んだことが無くてもダイジョウブなように書かれている点です。たとえば

  • あえてその人物の性格や資質をひと言で定義し「二流の人物である」「無能であると言ってよかった」とはっきり書く(P34)
  • (日本史の教科書を読めばわかるような多くの人が知っているような)世の中に与えた影響という点から可能な限り単純化して人物評価をしている(P34)

などと司馬作品のわかりやすい特徴を注意点を含めあらかじめ提示しながら第一章では『国盗り物語』などを分析しつつ司馬作品にみる誰もが知る三英傑について紹介しています。

話を元に戻すとその第一章で唸らされたのは、なぜ司馬作品が読まれ続けているかについて、三英傑の話にふれたあと、必要に応じて我慢を重ねながら信玄公の軍事制度を学び秀吉が行った石高制を踏襲した家康は独創性がそれほどなく読者と同じ一般的な日本人であり、対して『国盗り物語』に描かれた信長や『坂の上の雲秋山真之といったどちらかというと日本人ばなれした人物を描いた司馬作品に読者は痛快さを見出してる(P53)と指摘してる点です。とても腑に落ちています。

そして磯田先生はそこまで書いていませんが・ここから先は人力詮索さてはですが、戦国時代や明治維新大河ドラマが多いのも、独創性を含めてなにかをしでかした痛快さを眺めたいということなのかもしれなかったり。

個人的に本書のいちばんのキモだと思ったのは、第二章以降で触れられている司馬遼太郎さんが抱えた問いのひとつの(戦車対戦車を想定して作られていない致命的欠陥を持つ戦車が最前線に配属されるような)不合理な結果を招く「深くは考えない」という日本的習慣がなぜ成立するのか?という点についての記述です。詳細は本書をお読みいただきたいのですが、『花神』をはじめとした司馬作品の磯田先生の解釈や磯田先生が知り得た知見を含め、それらの解が展開されています。そのうちのひとつが「思想は人間を酩酊させる」で、思想によって酩酊状態になってしまったがゆえに(フィクションじゃなくてそんなことあったのかというようなどちらかというと)狂気に近い現実的ではない幕末の計画を取り上げています(P80)。もうひとつ重要に思えるのが前例主義で、『坂の上の雲』で触れられている日露戦争の勝利の前例が結果的に天祐があるから日本軍は士気が高く兵器兵力の不足を補って勝てる、という議論の横行を許してしまったことに触れられています(P153)。

ほかにも日本と日本が参考にしたドイツの話であるとか語りたい点があるのですが、やはり詳細は本書をお読みいただくとして。

本書はどちらかというと司馬作品の文学の話というよりもフィクションとはいえ司馬作品が炙りだした日本のあやしい病巣を磯田先生が拡大鏡を使って解説しているといえます。なおあとがきに司馬作品が扱った日本という国が誤りに陥ってゆくパターンとして「想定外といわれるような事態に対してはレーダー能力が弱い」(P184)という記述があります。本が書かれたのは2017年で、そのあとのコロナ禍の初期対応を考えると、ぐうの音も出ないというかなんというか。司馬さんがあぶり出した病巣を、この国は果たして変えることが出来るのか?というとちょっと怪しい気が。

いつもふざけたことを書いているのに真面目なことを書いて気後れしてるのでこのへんで。