恐怖以外のもの>恐怖、のときの行動(もしくは「流行感冒」を読んで)

先月に磯田道史先生の「感染症の日本史」を読んでいて、先日はそれについて書いています。その「感染症の日本史」の中には志賀直哉の「流行感冒」という作品がダイジェストで紹介されていて、ぜひ詳細は磯田先生の本か小説自体をお読みいただきたいです。しかしちょっとだけネタバレをお許しいただきたいのですが、いわゆるスペイン風邪が住んでいる我孫子の街まで波及してることが述べられています。書いてる当人は小説の中の言葉を借りれば衛生思想があるのですが、住み込みの女中さんは衛生思想からではなく主人公らが怖がってるのに引き摺られて怖がってるところがあり、そんな中で我孫子に芝居の一座がやってきます。芝居をめぐるそのひとりの女中さんの行動と事実を知った主人公の行動が作品の中では描かれています。

いつものように話がすっ飛びます。と同時に、ちょっと上品ではないバカにされそうな話をします。

以前、(大人のおもちゃがわからないよい子のみんなはわからなくていいことなのですけど)リング式の大人のおもちゃを付けたことがありました。どこにどのようにつけるかはご想像にお任せしますが、調節機能があってMAXの表示があり、MAXではどうなるのだろうと興味を思って個人的に試して悶絶し、観察していた彼氏に止めて外してもらったことがあります。どうしてそんなことをするのかと呆れられたのですけど、興味>恐怖であったので好奇心に引き摺られちまったわけで。興味や好奇心に任せた結果実際にどうなるかを一度でも経験した今は、恐怖を味わう可能性があると考え、なるべく興味やあふれる好奇心を抑えるようになっています(大人のおもちゃだけではなくて)。

話をもとに戻すと、もうちょっとだけネタばれをすると小説の中にでてくる芝居に興味を持った女中さんは芝居へいってしまいます。その女中さんがどうなったかは繰り返しになりますが作品に触れていただくとして。興味に引き摺られてた・興味>恐怖であったかつての私に似てるなーと読んでて妙に親近感をもっていました。現在歌舞伎座では仁左衛門丈と玉三郎丈の桜姫東文章をやっていてコロナ禍でなければ幕見の列に並んででもみたいと思ってる程度に私も芝居好きだからよりそう感じてるのかもしれません。

あちこち話が飛んで恐縮です。

東京では感染者数はまだ3ケタですがじわじわと変異株の拡大の影響があるようで、「不要不急の外出はしないで」とか「県境を越えた移動は控えて欲しい」とか「買い物は3日に一度」であるとか、人の流れを抑えるための協力を求める役所のアナウンスを目にします。しかし人々がコロナへの恐怖より大きなものを抱えてる場合(例えばそれが文化的なものに触れたい欲求であるとか美味しい食べ物を食べたい欲求であるとか)、もしかしてそれらのアナウンスは意味を持たないのではないか・行動を変えるきっかけにはなりはしないのではないか、とは我が身を振り返っても・小説の女中さんを眺めてても思うのです。恐怖以外のもの>恐怖の状態である限り、人はそう簡単に行動を変えないはずです。じゃあどうすればいいのか、っていうのも、正直わかりません。もちろん各個人の感染症対策が功を奏せばそれにこしたことはないのですが。

幸か不幸か興味のままに流されると恐怖を味わうことを私は股間の経験から勉強しましたがあくまでも個人的体験です。ですから大口は叩けません。ただ「流行感冒」を読んで、そして去年の四月に比べて感染症に対する恐怖が薄れてるようにも見える現在の社会の状況を考えるとちょっと怖いな、とは思っていて、人の流れをあまり抑え込むことができないのではないか、と悲観的に予想しています。

ここらへん、杞憂であればいいのですが。