朝起こすときのことばについて

ここのところしばらく著書を追いかけている山梨出身の網野善彦という歴史学者の説はどちらかというと日本が均質的な単一民族であるかのような考え方に批判的です。詳細は著作をお読みいただきたいのですが『東と西の語る日本史』(網野善彦講談社学芸文庫・1998)という本の冒頭に名古屋市の電柱にあった広告の「ひち」がなんだかわからなかった…という体験的告白があってそこから東国と西国の差異に論が進み、その本を読んで言葉に限らず西と東の差異が確かにあるよなあ…などと思っていました。

話がいつものように横に素っ飛んで恐縮です。

いま『日本語の大疑問2』(国立国語研究所編・幻冬舎新書・2024)という本を読んでいて、その中に

はっきりいう/遠回しにいうといった地域による話し方の差について違いはありますか?

という質疑と応答があり(P60)、本書では実証的な客観的な裏付けを基に違いがあることを答えるのは困難としつつ、谷崎潤一郎の文章を紹介するカタチでいわゆる大阪のほのめかしが東京人にはわからないこと等が紹介され、次いで眠っている子(正確に書けば孫)の起こし方に差異についての2002年の調査が紹介されていました。

やさしくいう場合:「起きたらいい」「起きたらどうだ」(勧め表現)は東日本に多く、「起きなきゃだめ」「起きなあかん」(状況提示類)は西日本に多い

きびしくいう場合:「なぜ起きないんだ」「いつまで寝てるんだ」(状況問いかけ類)は東日本に多く、「起きなあかん」などの状況提示類は西日本に多い

『日本語の大疑問2』(P62)

西日本では一貫して状況を教え示すように言い、東日本では勧めや問いかけで、ああそんなところにも東西の差異があるのか…と興味深く読んでいます。

個人的なことを書くと私は子も孫も居ませんがコーヒーが冷めるから起きてとか離床を勧める東日本型で、なぜそんなふうな「勧め表現」でいうのか説明ができるようでできません。強いていえば「起きなあかんで」というような、しなければならない系の状況提示の表現に云われたらイヤ的な抵抗感があります。じゃあそれはなぜ?と云われると説明しずらく言葉に詰まるのですが。

どうしてそうなったのだろう?という解明のしようのない疑問とともに、日本語って謎が多いなあ、と毒にも薬にもならない感想しか出てこないのでこのへんで。