比較対象を置いて評価するもの言いについて

静岡の三島の東側には箱根山がありその箱根山の麓ではジャガイモを栽培していて、その箱根の西麓のジャガイモを利用して三島ではコロッケを作り、市内の中小の商店を巻き込んでそれを名物として三島コロッケの名で売っています。都市部へ出荷するのと違いそれほど運賃もかからないわけで農業生産者にもメリットがあるうえ、コロッケですから値段も手ごろで観光客の財布にも優しく、くわえて地元の商業振興にも一役買う三方良しのシステムです。専門外なのでヘタなことは云えぬものの「野菜を売る」のは頭を使わないか?といわれるとコロッケの取り組みを横目で眺めていたので「そんなことぜったいないやろ」感があったりします…って、コロッケの話をしたかったわけでは無くて。

ある知事さんが職員を前にして職員の仕事について「野菜を売るのとは違う」という発言をしてそれが報道されたのを新聞で読んでいます。私個人は(三島の取り組みをGJ!と考えていたので悲しみはあっても)野菜を売る人間ではないのと政治に詳しくはないのでそれについての深入りは避けます。

が、気になってることがあって

あるものを評価するときに比較対象として別のもの(今回の例でいえば野菜を売る)を置きそれを軸にして評価しようとする

ことをなぜ人はしてしまうのか、という点です。以前はてなハイクというところである作家と別の作家を並べて「格が違うんだよ格が」と書いてる人が居て(それが妥当かどうかを含め)どうしてそういうことをするのだろう?と印象に残ったのですが、おそらく知事さんだけの問題ではないはずです。もちろんそれらをやっちゃいけないわけではありません。が、比較対象があってはじめて他方の評価につながってる点でその人の中に固有の評価の軸が明確には無いことは明らかで、くわえてその人の中でどこをどう評価するのかということについて言語化できていないから安易に比較対象を置いてしまうのかなあ、と推測していますが、ほんとのところはわかりません。

幸か不幸かほかの対象物を置いて褒めるもしくは褒められるというのとは無縁で生きて来たので、今回の件がどうしても気になっちまったのですが、他山の石としてそのテのもの言いは避けようと思いました…って、なんだかうまくまとまらないのでこのへんで。