三島へ(山中城址見学)

箱根の山は天下の剣という歌がありますがその箱根山の東に位置するのが小田原で、その小田原を戦国時代に本拠地にしていた後北条氏は箱根の山の西側の三島へ抜ける尾根筋に防衛のため山中城という城を築城します。今でも城跡が残存していますが天守は現存してませんし日本史の教科書にはまず出てきませんし小田急などが推奨する観光ルートにもなってないので、正直、限りなく無名に近いです。しかしちょっと稀有なところで、先日その山中城址を見学しています。三島の市街地からだいたい30分くらいのところ。

山中城址の西ノ丸のあったあたりの堀ですが、空堀の中に掘り残しがあります。

衝立障子のような形状なので俗に障子堀といい、さきほども稀有と書きましたが後北条氏独特のものです。障子というよりワッフルのほうが近くない?という率直な感想を述べてお前な…と呆れられたのですが、それはともかく。

攻めようとすると掘り残しのワッフルの尾根の部分を歩かざるを得ませんが、狭いので一列に並んで歩かざるを得ません。仮に守るほうからすると一列に並んでいるところに一斉に鉄砲なり矢なりを仕掛ければ倒しやすいわけで。

今は上に植生がなされていますが、当時は粘土質の関東ローム層がむき出しの状態であったと思われていて、粘土質ゆえに滑りやすくワッフルの谷間に落ちてしまったら這い上がりにくく、仮に攻める側だとしらら攻めにくい、すっごくイヤらしい構造です。もっとも秀吉の小田原攻めに際して4万の兵が山中城に対して総攻撃を行い、対して山中城に居た北条側は4千で、残念ながら(…残念ながら?)半日ほどで落城してしまっています。

ワッフルの谷間に落ちるとどんな状態かわかる場所があってよじ登るのはおそらくかなり大変なはず。攻める側としては多少の困難を覚悟の上で「圧倒的な大軍勢でなにがなんでも落としてしまえ」という発想は愚かかもしれぬものの理解できなくもないです。なお関東ローム層はどちからというと固めゆえに戦国時代のワッフル…じゃねえ堀がずっと残ってるものの、念のため書いておくと台風の影響で斜面の一部は修復中で、攻めにくい城も台風には弱いようで。

本来であれば駿河湾天城山が眺めることが可能らしいものの、残念ながらそれらは曇天で叶わず。しかしそれでも山中城址は時間泥棒の場所でした。

さて、くだらないことを。

同じ三島市内の三島大社には頼朝公と北条政子が腰掛けたと伝わる石があります。源氏再興祈願のために参拝時に座っていたことに三島ではなってて、実朝暗殺の史実を知りつつ大河ドラマを視聴しているせいか、眺めてていくぶんか複雑な心境になっちまいました。5月に見たときには史実を知っててもそんな心境にはなっていなくて、それは今回のドラマのフィクションに溺れてるからこそかもしれない、と自覚してます。フィクションに溺れやすいのが歴史についてなにか書くのは危険かもしれないのでこのへんで。