一夜城へ

日曜に小田原へ行ってました(正確に書けば寄っていたなのですがそんなことはどうでもよくて)。小田原は城下町でいまでも小田原城があります。しかし歴史上はもうひとつ城がありました。秀吉が小田原攻めのときに築いたとされるいわゆる一夜城です。市街地から離れてるので一夜城をまず見学しようということになり、箱根ターンパイクの入り口のそばから石垣山をひたすら登って

一夜城の入り口へ。

小田原が陥落してしまうと城としての役割は終わってしまい、いまあるのは石垣だけです。予習してこなかったのでここから先は説明文の受け売りなのですけど、破却の際に行われた石垣の隅などを壊す城割りという痕跡がそのまま残っています。また、やはり説明文の受け売りなのですが、一夜城といっても石垣だけで一か月以上、トータルで80日近くかかっています。さすがに一夜では完成していません。

使われてるのは安山岩で、すぐそばに箱根がありますからおそらく箱根由来の溶岩のはずで、石の産地が近いわけですから一か月で石垣はなんとかなるかも。

なお秀吉の時期の石もそこそこでかいものがあったのですが

江戸期になるとかなりデカい石を一夜城の近辺から切り出していて、途中で放棄されたものが公園内に展示されていました。

木が生い茂ってるあたりにが本丸曲輪で、もともとはここに20mくらいの高さの石垣があったようで。

近くによると石垣の石が転がっています。小田原は関東大震災の被害がデカかったはずで、無理に修復しないでそのままなのが、なんかこう、震災の痕跡としても興味深かったり。

本丸があったあたりから小田原市街を眺めるといまは小田原城は見えません。しかし秀吉は城が出来上がった時点で邪魔な木を伐り、そしていっせいに鉄砲を撃ちこみます。北条側からするとあたかも一夜で城を作ったように見えたであろうことから一夜城という名前が出て来たのですが、ここらへん、伝言ゲームの怖さというか、時間の経過および人の口を経るごとに正確性が欠いてゆく例証になりそうな気が。

さて、山の上で困るのは飲用水です。尾根筋はまず水が出ません。いちいち山の下から持ってくるのは大変です。そして山の上にあるこの城がとった方策は

湧水が出る谷を石垣でせき止める、という力技です。この力技を誰が考えたのかを含めての話なのですが、誰がこの城の縄張り等をしたかは謎らしかったり。

本丸曲輪の石垣が崩れているのにくらべてこの飲用水を得るための井戸曲輪の石垣は400年以上経たいまもほぼ崩れていません。戦国期の石積みの技術、ガチで、ぱねぇっす。

間近で眺めると、マジか、と呟きたくなるほど。

城跡は公園として整備されています。城跡の公園なんか見てどうするの、と最初は内心少しだけ思っていたのですが、石や石垣だけでも時間泥棒で見応えがありました。城跡巡りをする人の気持ちが若干わかったような。

近くの港でおそい昼飯として、アジを食べてます。旬だけあって、ガチで旨かったです。しかし直後に強烈な雨に降られてしまい予定を変更し、小田原城を見学し損ねています。なのでまたそのうちアジを喰いに行く…じゃねえ、登城する予定です。