富山薬種商の館金岡邸見学

富山市内の東新庄に金岡邸という明治期の薬種商の建物が現存していて先日見学していました。薬でも小田原の外郎家は透頂香を小売りをしているので小田原城のすぐそばですが、金岡家は薬そのものではなく薬の材料を商う薬種商で、富山市内でも城のそばではなくどちらかというと郊外の住宅地にあります。

外観を眺めてると屋根の上になにかが載っていて、あれはなんだろう?灯台代わり?などと不思議に思えたのですが、それはいまは横に置いておくとして。

道路に面したところに店があり、多種類の薬の原材料≒薬種を入れる引き出しの多い百味箪笥が目を惹きます。人に見えるのは人形です。

センブリなどの薬草を入れていた引出そのものはたいして大きくありません。センブリは日本で採れますが、漢方の原材料は大陸や東南アジアなどからの輸入です。富山市の東岩瀬は江戸期は北前船の寄港地で、北前船に載せた蝦夷地の昆布は薩摩藩領に流れて琉球経由で中国へ行き、代わりに漢方の原材料は琉球経由で薩摩藩領から入手してそれが北前船で富山に来て金岡家などの薬種商が引き取り、薬種商は薬売りに原材料を売る仕組みです。

店の壁には個人が調合した薬の看板(左)が張ってありました(恥ずかしながらなんて読むのかはわからないです)。右の実母散は生理痛の薬で、上の健通丸はお通じの薬でつまるところ下剤です。おそらくそれらも取り次いでいたと思われます。

店のすぐ後ろには囲炉裏があり、かまどが見当たらなかったのでおそらくここが調理場兼食事スペースであった可能性が高いです。

この囲炉裏のあるスペースは非常に天井が高く、南面に窓があり陽が差し込み、くわえて白漆喰なので明るい印象を受けます。

囲炉裏の次の間は灰緑色の漆喰で天井に採光があり

外から眺めたときの灯台もどきは採光窓だったのか、と氷解しました。さきほどの囲炉裏の間の南面の窓と白漆喰を含め、雪の降る地域の太陽光に対する扱い方にちょっと唸らされています。ただ、この部屋がなにに使われていたのか尋ねたのですが不明で、つまるところ明治の富山の人たちの設計意図を現代人は理解できていないわけで。

灰緑色の漆喰の部屋の隣は赤い漆喰で、部屋ごとに漆喰の色を使い分けてることが理解できてきました。隣の加賀金沢だと赤い漆喰の部屋はもてなしの場などにつかうのですが、この赤い漆喰の部屋は天井が低くほぼ光が差し込まずでそのようには思えず、やはりどのように使われていたのかは謎です。

床の間のある部屋は手がかかる黒漆喰で、つい吹き出してしまってます。こうなってくると施主の金岡さんの遊び心なのではあるまいか?と思えてきたのですが、ほんとのところはわかりません。ここらへん工業製品ではない建築の素敵で不思議でバカバカしくて愛おしいところなのですが。

さて、金岡邸は明治天皇の訪問を受けていてその際に大広間などを増築してあります。

その増築部分で印象に残ったのがおそらくガラスが嵌め込まれた板戸です。ガラスを埋め込む必要があるのだろうか?と思わなくもないのですが

場所によってはガラス戸の先にガラスの嵌め込まれた板戸があって、先ほどの採光窓を思い出し、なにがなんでも陽の光を家の中に持ち込む執念を感じ、息をのんでいます。気候が違うといえばそれまでですがちょっと興味深く、設計者や施主の意図を汲むためには鈍色の空が続く冬に来るべきだったかな…と、春に来たことをほんのちょっと後悔しました。

なお大事なことを書いておくと金岡邸は越中の薬業の関しての展示がほとんどでその展示も時間泥棒で

名前をかろうじて知ってる熊胆であるとか富山の薬売りが扱っていた薬の展示もあってついまじまじと見入ってしまっていて、その中に強精剤があって、症状を治すだけが薬ではないんだよな、と思い知らされてます。くだらないことを書くと、いまのところ必要を感じていませんがそこに有ったらちょっと試してみようかな…と思わせる薬を忍ばせてる点で商売が巧いなあ…と思っちまったり。