伊東市東海館見学

伊豆の伊東に昭和3年に創業し平成13年に廃業した東海館という木造の元旅館がありいまは伊東市が管理していて、週末に見学していました。

望楼部分を除けば木造3階建てで、戦後はながいこと木造3階建てはNGでしたが伊東線が伊東まで開通した昭和13年に増築なのでセーフ(?)です。

玄関のある目の前の道路は狭め。くだらぬことを書くと資材は川のほうから引き上げたのかな?…とか見学時はなぜか請負業者目線で眺めていました。東京に戻ったいま改めて画像を眺めてるとけっこう大きい建物だったのだな、と。

玄関の唐破風の(鶴が居る)彫刻がかなり手が込んでいて、館内に入る前にさすがに「おお…」となったのですが、館内に入るとそれが序の口であったことを思い知ります。

館内にあった階段のひとつです。手すりはさすがに角材であるものの、いちばん目立つ柱は角材にせずもとの材をそのままの形で利用し見た目に変化を持たせて、さらに背後の壁は細竹を敷き詰めていて、見れば見るほどかなり手が込んでいて、思わず「マジか…」と口から出てしまっています。

別の階段では手すりすら角材を使わず、曲がった木をそのまま利用したり(≒寸法に合いそうなものを探す手間がかかっている)

さらにまた別の階段では壁は白漆喰ではあるものの一部に丸く穴をあけ、穴からおそらく竹材と思われるものをむき出しにしてあるものの、それをわざわざ斜めに配置してあります。仮に竹材を壁に関連させるなら斜めには絶対しませんからどう考えてもお遊びのはずです。そしてもちろんそのぶんの工賃は高くつくはずで、階段ひとつとってみてもちょっとクレイジーで、唸らされています。あとで知ったことなのですが館内各階ごとに異なる棟梁に任せていてそれぞれの棟梁が競い合うように本領を発揮していて、おそらく階段はその表れのようで。

廊下に対してトイレや客室の入り口が直角に設けられてるところもあることはあるのですが(こうすることによって客室を広くとることが出来るので合理的であるのですが)

館内の真ん中には吹き抜け状の庭がありそこを取り囲むように廊下がありガラス越しに眺めることが出来るようになっていて、そこに面している場合は

廊下に対して入口をわざと直角に作らず斜めにし、(扉が開いてるので中の郷土資料の武将の写真が見えちまってるのですけど)扉が開いただけでは中庭の反対側から中が見えないように(見せないように)工夫してありました。結果として部屋の広さを犠牲になっているのですが客なら誰もが通る廊下に変化がうまれてて、やはり唸らされています。

さて、訪問したのが午後であったので夕陽が差し込む時間帯や夜どんな様相になるのか見当はつかないものの、障子にも工夫がしてあって

ある客室の書院障子には投網を干した図柄であしらわれていたり

また別の部屋のどってことない障子でも帆掛け船になっていたり、それ単体で絵になるように考えこまれててやはり唸らされてます。単なる障子にすれば安くつくものの、なぜわざわざなぜそうしたかは謎です。謎ですが、階段や廊下や障子を眺めていると施主や棟梁は遠来の客を精一杯歓待しようとしたのはそのうち理解できてきました。

3階には120畳の大広間があります。おそらく宴会場として機能していたようなのですが、団体旅行の経験がないのでこの広間を埋め尽くす宴会が想像つかなかったり。

もちろんこの大広間でも床の間横の書院障子(下)や書院欄間(上)は絵にはならないけど手の込んだものになっていて、ぬかりはありません。

最上階には戦後建て増した望楼があって、バカと煙はなんとやらと云いますが登ってきました。

ここは手の込んだものはありません。やはり景色に勝るものはないのかも。

いまはいない関係者のその脳内の思考の残滓が垣間見えるのが工業製品ではない建築のとても素敵で厄介でかつ面白いところで、東海館はその残滓がかなり残る時間泥棒で濃密な空間でした。よくぞ残しておいてくれた感が強いです。

以下、くだらないことを。

東海館のそばの川沿いに鳩のオブジェがあります。関東の人間なので「伊東に行くならサ○ハトヤ」とつい口ずさんでしまいそうになるのでああだからハトなのかと腑に落ちかけたのですが、地図を見ると○ンハトヤもハト○も近所ではありません。ちょっと謎です。ついでにバカにされそうなことを書くと伊東へ着く直前サンハト○を目撃し「おおサンハ○ヤだ」と呟いて横で不思議な顔をされたのですが、小さいころから名前でしか知らぬ施設がちゃんとあると嬉しくありませんかね。ないかもですが。