富山城址およびTOYAMAキラリ見学

金沢に用があり帰途に富山に寄っていました。

富山市の富山城の跡は現在公園で模擬天守が戦後に作られ、その模擬天守の中はかんたんな資料館になっています。恥ずかしながら「戦国時代に誰が富山を治めていたの?」という問いに答えられないくらい富山の歴史に詳しくなく、詳細はかなり複雑なので現地へ行っていただくとして、越後の上杉謙信が西進するのを阻止するために甲斐の武田信玄公が越中南砺の一向一揆を支援していた史実を館内で知ってああそういえば新田次郎の小説にその記述がでてきたかもしれない…などとおのれの記憶力の怪しさを呪っています…って記憶力なんてどうでもよくて。資料館で富山のにわか勉強をしています。

いまは南側に堀が残されてるだけですが資料館の古地図をみる限り、かつては城の北側に神通川が流れており、くわえて西と東側の堀があり、ゆえに攻めにくい城ではあったようで。その神通川は富山と北の岩瀬を結ぶ運河の土砂で埋め立てられ

(金網越しで恐縮ですが)県庁や市役所になっています。かつて神通川がそばにあったことと関係あるかどうかは不勉強で知らぬものの目撃したことを書いておくと正月の能登地震

南側の堀の一部が崩れ

石垣には近づける状態ではなく

城址内でも砂が噴出した痕跡があったので液状化していたと思われる場所があるほか

トイレとおぼしき建物が西側に傾いており、それらの場所はやはり規制線が張られていました。おそらく神通川の自然堤防の上に築城されたと思われ、ゆえに上記の現象はすべて腑に落ちます。ブラタモリで「土地の歴史は消せない」というフレーズがあった記憶があるのですがまさにそれで、築城後数百年を経て出て来た過去の痕跡をみて唸らされちまってます。

さて、富山城からそれほど離れていない西町というところに

TOYAMAキラリという建物があり、富山第一銀行と図書館、それにガラスの美術館を10階建ての建物ひとつにまとめてます。ガラスとアルミと白御影の細長いパネルを無数に外壁にランダムに張り付けて外観を構成しているものの、右側の低層階と高層階全フロアは銀行ゆえにガラスの開口部が多め、中層階は図書館と美術館ゆえにガラスの開口部少なめ、と意図して変化をつけてあります。

銀行部分に近づいてパネルを撮ってみたのですが、法則性があるようで無く、見ていて飽きません。ついでに書いておくと写真は撮っていませんが館内は吹き抜けが斜めにあり、すべての床を効率よく使ってるわけではありません。パネルも吹き抜けも効率を考えれば無駄の極地でやらなくてもいいもので、にもかかわらず承認して突き進んだ施主は将来恨まれるかもしれぬものの、でも愛すべき冒険者のような気が。

パネルも平板なものがあったり尖ったりしているものが併存しています。石垣みたいだな…などと思っちまったのですが、石垣のように法則性があるようでない状態で並べられたものって、なんかこう、惹かれるものがありませんかね…ってそんなことはどうでもよくて。大事なことを書いておくと富山城址とTOYAMAキラリ、けっこう時間泥棒でした。

富山市内でも北部の岩瀬浜などで地震の影響があった模様ですがいまは市内電車は通常運行で、もちろん白エビもホタルイカも変わらずに美味かったです。