掛川城見学

静岡に行っていて、その際に掛川に寄っています。掛川には掛川城があってそこを見学しました。

いまある掛川城の城郭は安土桃山時代掛川に居た山内一豊が整備したもので、丘の上にある天守は幕末の安政地震で倒壊したあと平成になって(山内一豊が築いた高知城や残された絵図などを参考に)再現していてます。

さて掛川遠州で、戦国時代は駿河の今川家が支配していました。ご存じの通り桶狭間の戦い野村萬斎…じゃねえ今川義元が死亡し、義元亡き後に信玄公は駿河へ侵攻し、跡を継いだ溝端淳平…じゃねえ今川氏真は家臣を頼って掛川城へ行き、しかし掛川では西からの松本潤…じゃねえ徳川家康の軍勢に囲まれる事態に陥り、およそ5か月ほど籠城します。

籠城時に必要なものの一つが水でおそらく長期にわたり籠城できたのは井戸があったからで、今川家時代の痕跡でもあるのですがいまでもその井戸は現存します。丘の上なのになぜ?と不思議に思って尋ねると

天守の西側からの眺めなのですが)至近距離に(外堀の役割を持つ)川が流れていて、どうもそのレベルまで井戸は掘り下げてあって≒かなり深く掘ってあって、いまでも枯れてないのだとか。川に関連して書くと今川家の時代には川は暴れ川でもっと蛇行し、丘の上にある城は別として周囲に低湿地があったらしく(なので掛川は場所によっては地盤がゆるいらしいことも小声で教えてもらったのですがそれはともかく)、若き日の家康が5ヵ月近く落とせなかった点を含め攻めにくい良い城であったようで。

なお余談ですが天守に登るとき階段を使うことになるのですが、最近階段でスッ転んだせいもあってちょっと怖かったことを告白します。

幕末の安政地震天守が倒壊したと先ほど書きましたが天守の東側の御殿も倒壊していて、天守はともかくとして藩政の中心部として機能していた御殿は(流用できる部材は出来うる限り流用されながら)幕末に再建され

明治維新後は女学校や市役所のほか消防署として利用され幸いなことに空襲の被害もなく現存していて、そちらも見学してます。

官僚たる役人が勤務するのは御殿の東側で廊下は板張りで

藩主が謁見のほか政務を司るのは御殿の西側で

廊下も畳敷きで明るいほか広くとってあります。身分の差といってしまえばそれまでだけど、これだと西日で畳が大量に傷むんじゃね?なんでこんな構造なのだろう?と思っていたのですが

警護対象である藩主を天守にも近い中心部である御殿の西側に置きたかったのでは?と彼氏にいわれて腑に落ちたというか。建物を見て防衛を考えずにメンテナンスの金勘定を考えてしまうのは非武士階級の末裔だからかもで、血は争えません。あははのは。

掛川は必ずしも有名なところではないものの現地現物をみるとなかなか時間泥棒なところで、興味深いところでした。駅から歩いて行ける範囲なのですが、人出も多くなくなんかちょっともったいない感があったり。