『陰陽師とは何者か?』展(もしくは暦について)

いつものように知ったところでなんの役にも立たないことを書きます。

以前『鎌倉殿の13人』がきっかけで伊豆へ行き、その際に三嶋大社を参拝していて、その三嶋大社で知ったのが三嶋大社の関係者が作成した三島暦です。南北朝時代には三月三日が京都と三島で異なっていた記録があって、独自の暦を扱うからには(月の動きなどが関係してくるので)天文観測の拠点があってもよさそうなものの質問しても三嶋大社周辺にはそれらしきものは無いらしくどうやって暦を作っていたのか?というのがしばらくの間、ちょっと謎でした。その謎はおのれの人生に何の影響も与えませんからそのちょっとした謎を抱えたままでもよかったのですが

国立歴史民俗博物館で『陰陽師とは何者か?』展をやっていて、見学しています。陰陽寮が暦と関係するのでヒントがあるかも、と思った次第です。

展示の半分は陰陽師にまつわるものです。話がズレて恐縮ですが、もともとの業務として地相をみたり占いを行っていた陰陽師陰陽寮という組織に所属していました。そもそもその陰陽寮は当時の中国の国立天文台を真似て作られたもののなぜか日本ではなぜか観測技術が発達せず人材もさして育成されず暦の作成は中国から移入した暦法を基本となってゆき、そこに(神や霊が原因とする病気に関しての専門家である)呪禁師の業務が陰陽寮に移管され陰陽師が呪術なども扱うようになってゆきます。詳細はぜひ展示をご覧いただきたいのですが、科学的なものが大事にされず非科学的なものにとって代わられるのが展示を眺めて理解できいくばくかの悲しさを覚えながらもやはり興味深かったです。

展示の残り半分は暦です。話を暦に戻すと、平安期の貞観年間に大陸からもたさられた宣明暦法という暦制作法が定着し、それを基に計算によって暦が各地で作られるようになります。三島もそうで(他には伊勢など)、つまり天体観測の技術をさして必要とせず暦が作られていたようで。最初の私の疑問もここで氷解したのですが「京都が三月三日でも三島はそうではない」という事態を稀に引き起こしながらもこの宣明暦法による暦の制作は江戸期まで続きます。

キリスト教の伝来とともに西洋の天文観測の技術や知識が江戸期には日本に入り、江戸幕府は天文方を設置して天文観測を行い、日蝕や月蝕の時刻などのほか日の出から日の入りまでで計った昼や夜の長さについて予告できるようになりました。幕府の天文方で基本となる暦が作成されそれを陰陽道と関係がある京都の幸徳井家が(吉凶などの)暦注を加え、できたデータを天文方に戻して校正した上で伊勢や三島や会津など各地に配布して各地の独自の暦が出来上がるシステムとなったので「京都が三月三日でも三島はそうではない」という事態は起きずに済むようになっています。このシステムでも三島に観測拠点は不要で、なので見当たらなくてもなんの不思議もなかったことを理解しました。

個人的な疑問も氷解したしここで「めでたしめでたし」にしてもよいのですが、もうちょっと続けます。

明治5年に欧米と同じくいまの太陽暦に変わりますが、その際に(たとえば、種まきに向かぬ)歳下食や(いまでも土木工事を避けることがある)土用などの吉凶を含む暦注等が迷信とされて暦から消えその代わり天長節など皇室関連のものが入り(つまりそれまで暦は天皇を中心としたものではなかった)、さらに明治15年には暦は伊勢神宮が頒布する統制品になります。かといってずっと続いた生活に根差した慣習等が消えたわけではなく戦後に暦が統制品ではなくなるまで暦注を記載しつつも神宮の頒布する暦と異なる冊子ですらない「日めくり」の需要が高まったほか、暦に似せつつ「方位便覧」とか「農家便覧」と名乗って暦注を記載した通称おばけという法の穴を巧くすり抜けた冊子が展示されていて笑うところではないと知りつつもつい「ふふふ」となってしまっています。そして令和のいまでも「土用」や「友引」などの六曜が根強く残ってることを考えると生活に根差したものはなかなか変えられないのだな、と。また暦の方面からみていると江戸幕府より明治維新以降のほうがかなり強権的な気がしてならず、明治維新とはなんだったのか?を含め近代史の見方がちょっと変化してます…って私のことはどうでもよくて。

陰陽師とは何者か?』展はいくらかマニアックな展示で、万人受けするものではありません。でも時間泥棒です。展示は12月10日まで。