わかさぎ(もしくはほろ苦い思い出について)

子どもの頃に冬になると河口湖か山中湖あたりのワカサギが食卓に並ぶことがありました。少量ならフリッターとかになったはずですがいっぺんで食べきれない量が毎冬来て、素揚げして南蛮漬けになり、結果としてそれが何日か続いていました。ワカサギははらわたもそのまま食べるのでほろ苦く、そのほろ苦さを未成年が理解できるかといったら若干の無理があり、あたたかい炊き立てのご飯に載せたとしてもさすがに連日だと飽きてきます。そんな義務があるかどうかは別として人として一生分のワカサギを食べる義務はもう果たしたという意識があってワカサギはもういいや感が強く、かなり長いこと口にしていません。

話はいつものように横に素っ飛びます。

成人した頃はラガービールのほろ苦さが苦手でした。ところがいたすことをいたしてる相手がラガー派で、つられて一緒に呑んでいるうちにいつの間にかほろ苦さを受容できるようになっています。その経験から味覚に関することは慣れと思い込みが何割か作用しているのではあるまいか?と仮説を立てています。この仮説が正しいとするとワカサギも慣れれば・ワカサギを美味しいと思い込めるようになれば、もしかしたら義務意識から解放されなんとかなるかも感が一時ありました。

でもなんですが。

ワカサギを前にするとやはり一生分の義務は果たした感がいまもって強いです。

はてな今週のお題「ほろ苦い思い出」を引っ張ると、思い込みじゃなくてはるか昔のほろ苦い思い出になってしまうと、修正って難しいのかな、と。

なお山梨県内水面漁業の名誉のために書いておくと河口湖や山中湖周辺ではワカサギが名物でこの時期盛業中で、県内各地にあるオギノ(というスーパー)ではおそらく他県ではないはずのピリ辛に炊いたワカサギもあります。機会がありましたら是非。