「お客さまは神様です」雑感

くだらないことを書きます。

なんべんか書いているのですが吉祥寺の井の頭池には弁財天が居て、その弁財天というのがなぜか嫉妬深いといわれていて、ゆえに井の頭池へデートで行くと弁財天が嫉妬してその二人はわかれる、という噂がありました。「じゃあ男二人はどうなるのかやってみねえ?」「あははガン見したりして」とかいいながらデートでひざ枕したやつもいるのですが、十代の多感な頃にそんなのが身近にいると神様は人格者ではないのではないか?感が高まります(もっとも神だから人格はないのですが)。くわえて嫉妬とかそんな神様のようにはなりたくないなあという意識が醸成され、いまに至ります。

話はいつものように横にすっ飛びます。

「お客さまは神様です」というずいぶん前に亡くなった歌手の三波春夫さんのセリフがあってそれがいわゆるカスハラのときの正当化の文言に使われているようで、しかしその言葉は「敬虔な心で神に手を合わせたときのように」舞台に立つ心構えである旨を著作に残していたことを本人の著書の紹介付きで9日付の毎日新聞で知りました。もともとの意味とはかけ離れて使われてるわけで「どうしてそうなった?感」が強いのですが、井の頭の弁財天をイヤなヤツと認識していたので「お客さまは神様です」とかとんでもねえ…と考え、口にしたこともありませんしそのように行動したこともありません。カスハラをせずに済んだのは弁財天の神威の余得かもしれぬのですが…って私のことは横に置いておくとして。

話を戻すと「お客様は神様」という文言を引用して理不尽な要求をするのが冷静に考えると不思議で、それは神様は理不尽な要求をするという突拍子もない前提が無いと出てこないはずです。くわえてそれが傍からみると理不尽なことでも当人が良いことしているという前提がなければ躊躇なく実行できないはずで、実行する人の中ではそれらは正義である可能性は否定できません。推測に推測を重ねての人力詮索でしかありませんが、理屈を超えたところで正義が暴走し、本来の発言の趣旨と異なるところで有名人の語句とくっついて、突拍子もない前提を作り出し、妙に普及しててしまったのかなあ、と。

新聞を読んでボールペンでビー玉をつつくように思考があちこちへ飛んでしまったのですが、正解はわかりません。

ただあれこれ考えてるうちに

井の頭の弁財天へそのうちおまいりしておこう、とはなんとなく思っちまいました。