『ゆびさきと恋々』最終話まで視聴して

東京ローカルのMXで夜に放映していたアニメ『ゆびさきと恋々』を(録画したものですが)最終話まで視聴しました。原作は女性向けのマンガで、ここを書いているのはおっさんで、形式的にはどう考えてもnot for meなのですが、匿名を奇貨として以下、書きます。詳細は是非本作をご覧いただきたいのですが、大前提としては聴覚に不自由がある手話を操る大学生雪さんと雪さんの大学の先輩の逸臣先輩の物語で、いつものように幾ばくかのネタばれをお許しいただくと題名に恋々とあるように後半は雪さんと逸臣先輩の仲が良くなります。

本作の秀逸な点はいくつかありますがそのうちのひとつを挙げろさもなければ殺すといったとき、強いて挙げるとすると聴覚に障害のある雪さんの立場の描写があった点です。つまり映像をみているこちらも雪さんと同じ条件であったことがありました。逸臣先輩と雪さんは手話のほか読唇で意思疎通することが多いのですが、発話でなく唇の動きで「ぎゅーしていい?」と逸臣先輩から尋ねられた雪さんは許諾するものの、逸臣先輩にハグされず別のことをされてしまします(何をされたかは鏡の前でぎゅーしていい?と唇の動きに注意して真似ると判りますが判らない場合は原作もしくはアニメの7話をご覧ください)。それは結果オーライでほほえましい話のような扱いではあるものの、精緻な意思疎通が常にできるわけではないことの描写になっていて、唸らされています。また逸臣先輩の雪さんへの態度が物語の途中から微妙に変わり、雪さんの友達や逸臣先輩のバイト先の店長が気が付く程度に声音も変化します。しかしその変化が補聴器越しにしか聞こえない雪さんにはわかりません。その逸臣先輩の声の無いしかしやさしく雪さんの名を呼びかける描写もきちんとありました(4話)。指摘されて「どんな声だったのか?」と雪さんが悲嘆ではなく良い方向に思いを巡らす描写もあって、どってことない些細なエピソードなのですが、映像でそこをきちんと描いてる点も唸らされています。

そんなふうに雪さんの置かれた状況を喜劇にも悲劇にもできたはずなのにそれをせず、雪さんは逸臣先輩と出会うことで世界が広がり、物語が進んでも飽きることがありませんでした。制作陣にブラボーを叫びたいところであったり。

物語が進むにつれて印象に残ったのが視線もしくは見ることについて、です。もう幾ばくかのネタバレをお許し願いたいのですが、雪さんの幼馴染である桜志くんは手話で会話してる状態では雪さんの視線を独占できることに気が付き手話を勉強したことを逸臣先輩に酒の席で語ります(なぜ逸臣先輩と桜志くんが一緒に酒を呑んでるのかは10話をご覧ください)。視線もしくは見ることは意図的に行うことが出来て意図的にできる行為だからこそ誰かの視線の対象になったと察したときになんらかの感情を引き起こすことが有り得る…というのは理解できないわけではなく、視線を独占できなくなってしまった悔しさを含めその微妙な機敏を映像に巧く載せてあって説得力があって、唸らされています。関連してくだらぬことを書くと、雪さんによって変化したのは桜志くんで逸臣先輩も彼を嫌いになれず、ヒロインは形式的には雪さんなのですが個人的には桜志くんがこの物語のヒロインだよなあ…とも思っちまったり。

最終話では雪さんへのメッセージというカタチをとりながらドイツ語圏で育った逸臣先輩の半生が語られ、異なる言語で苦労しながらも作中の言葉を借りれば「会話で言葉が通じた瞬間の嬉しさ」について触れられていました。話が横に素っ飛んで恐縮なのですが、1話で雪さんがスマホのメール機能で意思疎通をしようとしたのを制し逸臣先輩は読唇で意思疎通しようとしそれが巧く機能していたそのシーンが妙に印象に残っていて、それは(発声はなくても模索しながら)会話で言葉が通じた瞬間で、とても良いと思えた場面であったので「ああそこにつながるのか…」と鳥肌がたっています。他にも逸臣先輩と雪さんの間で模索しながらも「会話で言葉が通じた瞬間」というのは物語の中で出てきていて、その模索が物語の軸のひとつでもあったのだな、と改めて気付かされました。話を元に戻すと逸臣先輩のいう「会話で言葉が通じた瞬間の嬉しさ」は得意ではない英語で似たような経験があるのでひどくよくわかり、ゆえにそこらへんを意識しないながらもひっかかって、つい最後まで視聴しちまったのかもしれません。きわめて個人的なことも絡まりくわえてバカの証明にもなりかねないのでこれくらいにして。

ここ数年意思疎通についてうっすらと考え続けていたのでどうしてもその方面からの感想がでてきちまうのですけど、もしかしたら上に書いた感想はきわめて変で万人受けせず噴飯ものかもしれません。くわえてマンガやアニメについて詳しくないのでこのへんで。