去春から断続的に網野善彦さんという2004年に亡くなった日本史の歴史家の著作を追っています。恥ずかしながらまだすべては追えていません。追っていて印象に残ってるのが飛礫の話です。最近読んでいる西洋中世史家の阿部謹也さんとの対談本『中世の再発見』(網野善彦・阿部謹也・平凡社ライブラリー・1994)では網野さんのペルー訪問から話がはじまってるのですが(この本、売買や贈与や追奪担保責任の話などが出て来てまだ途中ですが元法学部生としてはすごく興味深い本で…ってそれは横に置いておくとして)、ペルーでも祭りのときに飛礫があったことを(P46)述べています。付随して阿部さんはティル・オイレンシュピーゲルの話の中に街中に小石を撒いた話などを述べているのですが(P52)、人類はほんとにあちこちで石を投げてるのだなあ、と思い知らされています。
なぜ人は石を投げるのか?という読んでいるこちらの素朴な疑問の直球の解答は明文では明らかにされていませんが(それはつまり日本や欧州の中世の人の考えをいまいち理解できていないことでもあるのですが)、藤原道長が叡山で飛び礫にあってしまった事例を上げながら当たった方が慎まねばならなかったこと(P66)や祇園会(=祇園祭)のときに飛び礫を北条泰時がやめさせようとしたところ飢饉が起きたのだという風評が立ってしまったこと(P58)を網野さんが、また特別の事情があって不慮の死を遂げた人の墓を通る前には石を投げる英独の風習などを阿部さんが述べていて(P52)、やはり石を投げる行為(もしくはそれから逃げる行為)になんらかの意味を込めていたのは確かなようで。
話はいつものように横に素っ飛びます。
さすがに石は誰かに投げたことはありません。しかし、読んでいて、学生時代の時などにドッジボールなどで当たらぬように機敏に逃げ回り続けて生き残った級友を見て単に逃げてるだけにもかかわらず、すげー、と思った記憶が蘇っています。なぜそう思ったか。逃げること以外考えてない・裏表のないことが行動から丸見えになったからです。遊びでの野球にしても内心はどうやって打ち取るかしか考えずに投げていました。それらのことから「投げられたものから逃げること」や「投げること」はもしかしたら人の裏表を無くして雑念が介在しにくい状態になる稀有な行為なのだろうか、などと思考が謎発展しています。雑念の介在しにくいそれらの行為がそのうち宗教的な意味合いや呪術的な意味あいすら持つようになったのかな、と。人力詮索が散らかるばかりで結論じみたものも無いのですが。
いまは投げるといったってちょっと遠くからゴミ箱めがけて横着して「外れるな」と念じて投げるくらいしかしません…ってここまで真面目に書いたのに最後に不真面目なこと書いたら、それじゃダメじゃん。
はてなの今週のお題が「何して遊んだ?」なのですが、本に書かれた一見すると遊びっぽいものの記述が、おのれの過去の遊びの記憶と結びついて、錯覚かもしれぬものの線のようにつながることってないですかね。ないかもですが。