本棚の片隅の本

零れ幸いという言葉があって、思いがけない僥倖みたいな意味なのですが、知ったのは池波正太郎作品です。「江戸の言葉なんだろうな、なんだか良いな」と思っておのれの語彙の中に入れて、機会があったら口にしてましたし文章にも使っています。ところが、何年か前にBSの池波作品について特集した番組の中で(その頃東大に居た)キャンベル先生が江戸時代の江戸に「零れ幸い」という言葉はなかったことを指摘していました。ナンダッテー!=͟͟͞͞(꒪ᗜ꒪ ‧̣̥̇)と思いつつもしかし不思議と悔しいとももちろん騙されたとは思えずにいます。よくできたフィクションだからかもしれません。はてな今週のお題が「本棚の中身」なのですが、池波作品は捨てずに本棚のある程度のスペースを占めています…ってここで終わればいかにも読書家っぽい誤解を与えることができるのですが私は残念ながら読書家ではありません。気になった本を読んでるだけの一介の(勤務先は4階の)サラリーマンです。

取捨選択が下手な人間で本棚はひとつだけでは収容しきれず、デッドスペースになっていたところに文庫や新書が収納できる小さな本棚を別途設置しています。池波作品もそこに入れてあるのですが

縦に並べるだけでは収まりきらず横にして置いてる始末で、つまるところ、本棚を美しく見せようという意識は全くありません。ちっともきれいではありません。ほら、そもそも本や本棚って見せびらかす前提じゃないじゃないですか…って苦しい弁明になっちまうのですが。

更にその本棚の片隅には歴史や紀行、エッセイ、小説の文庫や新書等を並べてあるのですがまったくまとまりがありません。表紙カバーがまだ残存してる比較的キレイ目で、かつ、内容があんまり重くないやつを選抜して置いています。この中から1冊抜き出してカバンの中によく放り込んでます。何の目的で?っていわれるとキツイのですが、(JRが事故や故障で止まることが多い地域なので)電車が止まったときや病院の待合室などですることがないとき(あんまり理解されない性癖かもしれませんが)なにか読んでいたいのです。なので途中で中断しても良いように何度も既読の内容を熟知してて、かつ、何度も読める本だけ置いていて、たまに入れ換えます。多分本棚にそんな「わりと手に取る本だけのコーナー」を作るのは少数派だと思います。なお、そのコーナーで並んでる本で簡単に手に入るとはいえ仮にいま持ってかれると少し動揺する本を三冊挙げると『赤めだか』(立川談春・扶桑社文庫)、『有頂天家族』(森美登美彦・幻冬舎文庫)、『中世の再発見』(網野善彦阿部謹也平凡社ライブラリー)です。内容は知ってるのですが、万一、盗みに入っても持って行かないでいただけるとありがたいです。

つらつら書いてて気が付いたことをひとつ。零れ幸いという言葉を私が体内に取り込んだように、本は読んだ人の一部になる可能性があります。『君の膵臓をたべたい』では好きな本は人となりを表すとも言っていました。そこらへん考えると、読む本はその人の内面を知る手掛かりになる、とよくいわれますがあながち間違ってないかな、と。そうすると、わりと手に取る本棚の本がまとまりのないことを明かしてしまったので、私がまとまりのない内面を持つ人間であることが晒してしまってる気が。

でも、まとまりがなくてもなんべんも手に取る本に出合えたこと、それらを増やす時間があったことはラッキーだったかな、と。