「みんなと共通することが重要視され」る空気のこと

たぶんきっと何度も書いてることなのですが、はてなハイクというSNSにいたときにSNSというのは同質性のある人同士を結び付けるにはもってこいのシステムではないか、という疑念をもっていました。同質性って別にややこしく考えないでいいです。「〇〇がいい」という意見を書く上で「なにがどういいか」ということを第三者にわかるように書くのが第三者にはわかりやすいのですが、Twitterなどの文字数の関係でそれができないとき、端折って書いてしまうとわけわかめになるのですが、書いた方と読んだ方に同質性があればその人たちの間では通じてしまい、結果として、SNSなどは同質性があり同じ意見を持った人同士の集まりになってしまうのではないか、と疑っています。疑うに至った過程はTwitter慣れした「何がどうよくないか」を端折る人の文章を読んで「わけがわかんない」と頭を抱えたことに起因します。もしかしてネットではそれがあたりまえなのかもしれません。それでもはてなハイクではゆらゆらと生きてこれたのですが。

この1年、折に触れて書いている青ブタこと青春ブタ野郎シリーズも実はネットやSNSの存在が何度か重要な要素としてでてきます。文中の言葉を借りれば事の真偽よりも「みんなと共通してることが重要視され」る空気がSNSなどネットによって醸成されたことがさらっと書かれてます(「青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない」p112)。同質性のことは意識してもこの「みんなと共通してることが重要視され」る空気というのは正直青ブタを読むまではあまり意識したことがありませんでした。主人公である咲太と違って社会人ですが、「どう思う?」と意見を聞かれて違う意見を述べたら不思議そうな顔をした人のことを思い出し、あああそこはみんなと共通した意見を出すべきだったのだな、と読んだあと腑に落ちてます。

話はいつものように横に素っ飛びます。

マスクは感染予防にはならないけど無症状でも他人に感染させないためには必須であることを星条旗新聞で読んでから+リモートワークがいくらか困難な職種なせいもあって都心部への通勤をマスクをしながら続けているのですが、マスクが綱渡りというかピンチだった時期があって、アベノマスクでも何でもいいから欲しいと思っていた時期がありました。はてなハイク無きあとSNSっぽいものにアカウントを作りはしたものの、アベノマスクに否定的な意見をわりとみてしまうとなかなか発言がしにくくなってきました。その何割かはおのれの中にあるのですが、ああこれがもしかして「みんなと共通してることが重要視され」る空気なのかと妙に納得してます。気が付くとなかなかきついです。他人と異なる意見を持ちやすいのでやはり似たような意見が並びやすいSNSに向いてないなあ、と。

フィクションで知ったことが現実として体感できるともう一度フィクションを手に取りたくなり青ブタを本棚から引っ張り出してきたのですが、そこには(フィクションの5月には)野生のバニーガールの桜島先輩が図書館にいました。やはりフィクションはフィクションで現実ではないです。でもフィクションのおかげで前は気が付かなかったことを気が付けただけ、おのれにとってはラッキーだったのかな、と。