小指の思い出について2

「Tell me where is fancy bred, Or in the heart or in the head?How begot, how nourished?」ってのがヴェニスの商人にあります。大学のときに読んでいてわたしはあほうがくぶ卒なので巧い日本語が思い浮かばないのですが、気まぐれな心はどこからでたの?胸の中?頭の中?どうやって宿して、どうやって育つの?というようなことを問うています。答えは用意されてて「It is engender'd in the eyes」ってあるので、眼です。おのれを振り返ってもこれが良いと思って買ったものでも別のものを見てしまうとあああれも良いな、ってなりがちで、うつろう心ってのは目からくる、ってのはひどく理解できます。大学のあと社会に出てTOKIOの長瀬くんがカバーした

あんまりそわそわしないであなたはいつでもきょろきょろ

よそ見をするのはやめてよ

「ラムのラブソング」

というのを聴いて印象に残ってて、上記の眼の話を含めてああたしかに人間にとって眼というのは厄介だなあ、と思うようになっています。他人の視線の行き先がすっごく気になることがあるのです。彼氏はいまでもヒロスエのファンなのですが、きょろきょろしてるわけではないけどヒロスエのポスターをじっと眺めてるのをみたとき、おとこなのにラムちゃんの言いたいことはなんとなくわかるようになりました。ああ、おれは鬼型宇宙人だったのか、って話がズレた。

文章でも歌でも語句のそのうしろに眼に限らず身体の感覚や経験や体験に裏打ちされたものがある場合があって、それが書く方と読む方とをくっつけることがあるかもなあ、ということに気が付いています。でもって身体の感覚や経験や体験に裏打ちされた部分がちょっとでもあるとは私は比較的理解しやすいところがあります。つか、読んだ言葉の理解を支えるのが論理とは限らず・読んだ言葉のイメージを支えるのが教養とは限らず、身体の感覚に頼ることがあることについて、書けば書くほどおのれが頭が良くないことの・頭がからっぽであることの間接的証明になってしまってる気がするのですがそれはいまは横に置いておくとして。

いつのものように話が素っ飛びます。

NHKBSで土曜にやっていた桑田佳祐さんが昭和と平成にヒットした他の人の歌をカバーする「ひとり紅白歌合戦」という番組の録画を何回かに分けて夜に視聴していて、けっこう興味深かったのが昭和の歌謡曲です。たとえば

あなたが噛んだ小指が痛い

昨日の夜の小指が痛い

 伊東ゆかり「小指の思い出」

というのを桑田さんの声で聴いていて、小指を噛んだことはないものの他人の指を口腔内に含んでいるときの舌の感触であるとかそのときの相手の視線をやはり想起して、おそらくつよく小指を噛まれたのではなくて指を口腔内に入れるような相手との邂逅の余韻に浸ってるのだろうな、と書かれたわけではない行間をいつのまにか読んでいました(というか聴いていましたと書くべきか)。経験や身体の感覚や体験などから理解を知らず知らずに進めてて、興味深い経験をしてます。歌う方と聴く方が体験というか身体の感覚で結びついてることってあるのだなあとあらためて思い知りました。でもって(伊東さんの曲についてではないのですが)桑田さんの言葉を借りれば「実地体験」がないと出てこないかもしれない歌が他にもあったほか、それとは別に当該番組では槇原敬之aiko中島みゆき松任谷由実和田アキ子GARO等の曲をカバーしてて解釈と鑑賞をしてるうちに度数の高い酒をあおったようなヒリヒリとした感覚に包まれ「ひとり紅白」はとても至福の時間だったのですが。

話をもとに戻すと母語を日本語としてるので日本語で書かれれば、だいたい読めます。しかし私は他人の書いた文章が読めるけどなにをいってるかわからないという体験をして以降その反射的効果として、人が書いてあることを理解する・理解できない分かれ目ってなんなのだろうという答えのなさそうな疑問を抱き続けてます。文章能力が無い私には深刻な問題で、おのれが書いた文章を他人に理解してもらえなかったらよくわからないやつで終わってしまうわけで。でもって答えは相変わらずありません。が、わたしが生まれる前の歌謡曲でも身体の感覚や経験や体験を接点にして理解できることは改めてわかったので、詩人や小説家になるわけでも売文業をするわけでもないのですが、そこらへんちょっと留意してもう少しあがいてみようかと思いました。