口に出して記憶する方法の弱点

口に出して耳で記憶するということをなんべんかしたことがあります。たぶん以前にも書いてるはずなのですが、百人一首を(50だったかもしくは)30覚えろ、覚えない限り居残りで帰宅できない、というのが10代の頃にあって、おそらくそのときが最初です。定期テストではなくてたしか小テストで、記憶力が良くないのを自覚していたので必死になって意味は後回しにして口にして耳で覚えています。幸いにして居残りは回避できています。いまでもそのときに覚えたものは「逢いみてののちのこころにくらぶればむかしはものを思わざりけり」とかスラスラと口に出すことができます。

ここではてな今週のお題「試験の思い出」を引っ張ると、試験をきっかけに口にして耳で覚えたことはなかなか忘却できないことがあるのではないか、と。

口に出して耳にして記憶する集中力は大学へ行って条文を覚えるときに役に立っていて、重要過ぎて試験には出なかったものの「不動産ニ関スル物権ノ得喪及ヒ変更ハ登記法ノ定ムルニ従ヒ其登記ヲ為スニ非ザレバ之ヲ以テ第三者ニ対抗スルコトヲ得ス」という民法の重要な条文(177条)は大学を出たあともかなりの期間覚えていました。ただしいまはいまは現代語訳化されてるのでこの語句ではありません。

「逢いみてののちのこころにくらぶればむかしはものを思わざりけり」というのを覚えたあと記憶が薄れなかった故に、デート前に勝負パンツを手にあれこれ考えていたときに「パンツごときで以前は物思いにふけらなかったよな」とおのれの変化に気が付き、勝負パンツを手にしてなくても権中納言忠敦は実体験から詠んだのだとしたらと考えると妙に親近感が湧きだし、正直その時点でやっと内容を理解できたと実感できています。試験用の暗記と理解は違うのだということを意識した強烈な体験のひとつです。と、同時に、古典というものがなぜ現代でも読まれ続けてるのか、感覚的に理解できました。その感覚をもっと明確に言語化するには文学部へ行けばよかったのでしょうが、法学部(のあほう学部側)であったので言語化できぬままです…って話がズレた。

最後に大事なことを。記憶力が良くないので語呂で覚えたのものがあります。年号を覚えるのが不得手で、関ヶ原に比べてわかりにくい1582年の本能寺の変を試験対策で「いちごパンツ本能寺」と覚えました。おそらく上手く出来た語呂なので口にしてしまったのだと思われるのですが、いまだに忘れることが出来ていません。百人一首はまだムダな教養のひとつとして役立ちそうではあるものの、この先の人生で本能寺の変の年号を問われる可能性のある試験などあるはずないのでいい加減忘れたいところなのですが、消去の方法が思いつかなかったり。

なので、巻き添えにします。今年の大河の信長公の俳優さんを想起しながら「いちごパンツ本能寺の変」と口にすると本能寺の変の年号はなかなか忘れぬこと請け合いです(なお、ほんとに口にして忘れることが出来なくなっても当方は責任は持てません)。