試験対策の勉強の限界(もしくは暗記の勉強は後日の素朴な疑問の解にならない)

たぶんなんべんも書いてるかもしれぬものの百人一首を暗記して30(だったかもしくは50)書けという小試験が学生の頃にありました。定期試験ではないのが幸いで、しかし30書けるまで居残りというのが厄介で、ガラスの10代の少年が藤原定家への殺意を醸成するきっかけになった出来事でもあります。そのときに覚えた短歌というのはくたびれた40代になっても何らかのきっかけにふとスラスラと出てきます。「つくばねの峰より落ちるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」ってのもそうで、しかし暗記するときはたいへんで、峰より落ちるはわかっても恋が積もるってのがむくつけき男にはまずわかりません。だもんで、うっすらと記憶に残ってるつくば万博の会場に滝を作って鯉が降って来て積もる絵を想像していました。そのことを以前つくばへ行く常磐道でふと思い出して口にしたものの、聞かされた方は運転中で笑いを堪えていて、安全のために短歌の話はよしておいたほうがいいのかなと察して、以後運転中に短歌の話はしていません…って、そんな話をしたいわけではなくて。

はてな今週のお題が「試験の思い出」なのですが、そんなふうに試験に関連して暗記中心で短歌というのを知りました。五七五七七で短歌になると知識として知ってはいるもののしかし後日に素朴な疑問としてでてきた短歌と短歌でないものの差はなにか?という問いに解をもちません。つまり、恥ずかしながら肝心かなめなことは知りませんし理解していません。大学で文学部へ行けば理解できたかもしれませんが残念ながら(…残念ながら?)自称あほう学部の法学部へ行っちまっています。

試験に関係なく知った額田王の歌に「君待つと吾が恋をれば我が宿のすだれ動かし秋の風吹く」っていうのが万葉集にあって、先にシャワーをつかわせてもらってシーツにくるまって待っていたときちょっとした物音にびっくりした体験から、「いつくるのかなあ」とひとりで待っていたときに風で簾が動いてびっくりした、という意味にとって「理解した!」つもりですが、その解釈で試験で〇を貰えるかどうかは怪しいですし、いまでも短歌と短歌でないものの差は理解できていません。

話はいつものように横に素っ飛びます。

学生時代に世界史はあるていど勉強しなくても点数をとれたものの、興味がそれほどない分野は流れを押さえたうえで試験対策で暗記中心でした。たとえばロシア史です。この100年でスターリン亡きあとプーチンが出て来て「どうしてあの国は独裁者が出てきてしまうのか」とか「もしかしてピョートル大帝に郷愁があるのか」とか、ここ数日の報道を眺めてるといろいろ素朴な疑問が出てきてます。もうちょっとロシア史を押さえておけば違う見方ができるかもしれぬものの、もちろん答えはわかりません。

振り返れば試験のための暗記中心の勉強は、点数が取れても肝心かなめなところが理解できてなかったし、後日の素朴な疑問の解にはならないよなあ、などと大人になって自覚することってないっすかね、ないかもですが。