下書き供養(もしくは身体の感覚に裏打ちされた言葉について)

「Tell me where is fancy bred, Or in the heart or in the head?How begot, how nourished?」

ってのがヴェニスの商人にあります。わたしはバカなので巧い日本語が思い浮かばないのですが、気まぐれな心はどこからでたの?胸の中?頭の中?どうやって宿して、どうやって育つの?というようなことを問うています。答えは用意されてて

「It is engender'd in the eyes」

ってあるので、眼です。読んだのは大学の頃で、そのあと社会に出てTOKIOの長瀬くんがカバーしたラムのラブソングで

あんまりそわそわしないであなたはいつでもきょろきょろよそ見をするのはやめてよ

(ラムのラブソング)

というのを聴いてからうわあああヴェニスの商人のTell meからはじまるあの文章は普遍的なことを書いてるのかも!と考えるようになりました。長瀬くんの歌に頼らなくても、おのれを振り返ってもこれが良いと思って買ったものでも別のものを見てしまうとあああれも良いな、ってなりがちで、うつろう心ってのは目からくる、ってのはひどく理解できますって、浮気のはなしをしたいわけではなくて。

ヴェニスの商人もラムのラブソングも、文章のそのうしろに身体の感覚に裏打ちされたものがあるような気がしてならず、もちろんその二つに限らず、場合によっては身体の奥底にこつんと響くように書く方と読む方とをくっつけることがあるよなあ、ということに気が付いています。でもって身体の感覚に裏打ちされた言葉の連なりや文章がちょっとでもある場合、(俳句や短歌や小説や戯曲やエッセイは)私は比較的理解しやすいところがあります。つか、読んだものの文章の言葉を支えるのが論理ではなく、読んだ文章のイメージを支えるのが教養でもなく、身体の感覚に頼ることがあることについて、書けば書くほど頭だけつかって理解してるわけではないことの・おのれが頭が良くないことの・頭がからっぽであることの間接的証明になってしまってる気がします。

いつものように話が素っ飛んで恐縮です。

(5月27日付)毎日新聞夕刊に村上春樹さんのインタビューが掲載されてて、内容はほぼ騎士団長殺しについてで未読なのでちんぷんかんぷんだったのですが(念のため切り抜きして騎士団長殺しを読んだ後にインタビューを再度読むつもりです)、興味深かったのが村上さんは自身の文章のことを「いわゆる文学的文章ではなくてプレーンな(わかりやすい)文章」と述べてて、大学で文学をやらずに塩ラーメンになぜゴマがついてるかの研究…じゃねえ不動産ニ関スル物権ノ得喪及ヒ変更ハ登記法ノ定ムルニ従ヒ其登記ヲ為スニ非ザレバ之ヲ以テ第三者ニ対抗スルコトヲ得スとかの文学とは程遠い文語体を体の中にとこりこんでいたので文学もわからなければ文学的文章というのがまったく見当がつかないのですが、私はそれを身体の感覚に類似したことだと思っているのだけど触知できるリアルさに力点を置き、プレーンな(わかりやすい)文章だからこそ、おれみたいな頭のからっぽなやつでも村上さんの小説のいくつかは読めたのかなあ、と腑に落ちました。

…てなことを2019年5月末に書いていて、相変わらず「騎士団長殺し」については読んでなくて、いまに至ります。はてな今週のお題が「下書き供養」で引っ張り出したのですが長々と書いて「身体の感覚に裏打ちされた言葉のおかげで文学なんてよくわからねえけどそれでも読めて理解できた文章や言葉があった」という告白にしかならないです。

補足すると、くり返し何度も書いてることなのですが、はてなハイクというところで日本語で書かれた文章のやりとりをして何を言ってるのかわからない経験をしてから自分の書いた文章も他人が読んでもわからないかもしれないという恐怖を引き摺っています。上に書いた「身体の感覚に裏打ちされたものがあるような言葉や文章はよくわかる」ことは「私も身体の感覚に裏打ちされたものを書けば誰かに理解してもらえる」可能性があることにつながると考えてて、自分の書いた文章が他人が読んでもわからないかもしれないという恐怖を引き摺っている私は常にではありませんがどこか意識してるコアな部分でもあり続けています。ほかにも、意味が分かる文章と意味が分からない文章があるのはなぜなのかとか、ずっと考えてて、答えは出ていません。もっともそんな厄介なことを考えるのは普通はしないことかもしれないので、書いて普通にもなれないことを明らかにするよりこれらのことは下書きのまま封印していたほうがよかったかもしれません。

が。

書いた下書きっておのれの未熟さをさらけだすものであっても、日の目にさらしたくなる誘惑ってありませんかね。ないかもですが。