読書の秋

私は本を読んでいるかといったらそんなにたくさん読んでいません。ですから童貞が非童貞に持つような劣等感が本をたくさん読むような人に対してあります。劣等感がありますから読書に関してなにか書くときには若干のうしろめたさがあります。でもって村上主義者でもなければハルキストでもありません。ですから村上春樹さんのことに関して書く場合も、童貞が非童貞に対して持つような、そしてまた劣等感があります。ただ気にはなっていて、結果として読んでしまっていますって、前置きなげーよ。何年か前に出版された「女のいない男たち」もその一つです。つまり村上さんに時間をつかってしまっています。その中に「木野」という作品があります。度数の高い酒をあおったようなひりひりとした短編です。奥さんが浮気してるんだけどその浮気を知っても傷つかないふりをして、根っこの部分を蓋をしてるのだけどとれてしまうような、若干厄介な作品です。

おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の傷みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。
村上春樹「女のいない男たち」「木野」

ってな部分があったりします。おのれのなかに主人公と同じように回避のケがないわけではないので、感覚を殺さずに真剣に向き合うこと、傷つくということ、に関しておのれの中で再考を要したきっかけの小説になるんすが。
以下、書くことは傍からみると、とても些細なことです。はてなっていろんな人がいるのでいろんなものを読ませてもらってて、村上さんについて「格が」とかよくわからない部分でこき下ろしてるのを読んだことがあります。読んだ瞬間、説得力はなさそうなものの、やばいものをみた感がありました。最初は「いろんなひとがいるんだなあ」と処理してたんですがいつまでたっても「もやもや」だけは残りました。その「もやもや」はうっすらとした痛みです。村上さんの作品を読むことに関し時間を消費したことに対し「ばかなんじゃないの」って云われてるような気がしたからです。で、なかったことにする、というのは「木野」を読んでしまった以上、できません。どう処理したかといえば「木野」をおのれの中で「この話は意味を持つ、それはこの物語に関しておのれの抱えてることに関して通じるところがある」というように言語化して、「読むことに関し個人的に意味があった」とし「だから他人の評価軸は関係ない」というように解釈するようになりました。傍からみると些細なことと思われますが、そうすることでもやもやというか痛みは消えました。それでも村上さんの小説を読んで書くことにバカにされるんじゃないかという若干の怖さはいまでもあります。ありますが、言語化同様こうして文章化することはときとして必要なことになのではないか、と思っています。
言語化と文章化のきっかけは切羽詰まって個人的なことからはじめましたが、経験してみると読んだ本について言語化と文章化はけっこう大切なことなのではないかと思うのですがって、本をたくさん読んでないので大きな口は叩けませんが。
はてな今週のお題が「読書の秋」なんすが、本を読むということはまれに↑につらつら書いたようにふとした拍子に本筋と関係ないところで厄介なこと引きずり込んでしまうことがあります。秋に読書なんてしないほうが良い、というのが正解かもしれません。しかしそれでも季節に関係なく丸善へ行って本棚の前でつい、手を伸ばしちまうのですけど。