「エモい」考

きっと繰り返し書いてることなのですが、私はwebで日本語で書き言葉で書かれてる文章でもその意味や意図が読めなかったことがあったりし、相手の書いてることがわからないというのは自分の言ってることが相手にもわからない可能性があるということに気が付いて、出来てるかどうかは別として誰でもわかるように書こうという努力をしています。なので誰もがわかるとは限らないスラングや新語はまず使いません。口にもしません。

とはいえ、たまにチェックはしています。

そのなかで「エモい」という言葉を2年くらい前から目にするようになりました。

毎日新聞で読む限りは(もしかしたら違うかもしれないけど)emotionから来ていて心に響くとか感動的であるとかを含め懐かしさや切なさを表現する便利な語句、と理解しています。便利な言葉であることは確かで、しかしそれで済ませてしまうとおのれの語彙を扱う能力が弱くなるという点も考えてやはり一切使っていません。ジョージ・オーウェルの「1984」という小説の中にニュースピークという思考の範囲を拡大するためではなくむしろ縮小するために考案された言語が出てきます。ニュースピークは語彙が減少し最終的には思想犯罪も文字通り不可能にしてしまう、という建前なのですけど、(フィクションを読んで影響されるのはどうかと思うものの)思考と言語もしくは語彙の関係を考えると語彙が減れば思想統制がされやすくなるのではと思ってて、私個人は自らの語彙を減らすことになんとなくの恐怖があります。

また別の理由もあります。

なにがどう良いかということも言語化する癖をつけるようにしていて(ただしいたすことをいたしてるときに下手に口走ると焦らされるので厄介なことになりますが)その癖を新語で壊したくないというのもあります。付け足すと怒りの感情を持ってるときにも「なにに怒りを持ってるか」というようなことを言語化する癖をつけて冷静になるようにしていて、つまり私は決して理性的な人間とは云い切れないので情動のようなものがあったとき(流されても何の解決にもならないことが多いので)それに流されなためのよすがとして言語化を使ってて、その能力を維持していたいというのがあります。

浅学なのであさってなことを云ってる可能性があるのですが・これから書くことは誇大妄想的になるのですが、私は「エモい」というこの情動に関する言葉があっという間に普及したのを眺めてて、実は情動に人は絡めとられやすいのと同時に言葉を尽くすことをめんどくさいと思ってるのでは(めんどくさいので便利な言葉に飛びついたのでは)?と疑っています。私はそこらへんにかなり抵抗があるのですが、変な奴かもしれません。私が変であるかどうかは横に置いておくとして。

思考が多くの語彙を含む言葉によってなされ、でもって感情もしくは情動と言葉と思考というのは切っても切り離せないはずのものです。情動に関するエモいという語彙を減らしかねない新しい言葉の氾濫は、思考を単純化させて言葉による情動や思考の統制を容易にしかねない導水路的なもののひとつに変化しかねないのでは?と疑っています。

いつものように話がとっ散らかって恐縮なのですが。

12日付の毎日新聞に(4月にはThere's Always TomorrowやSukiyakiが流れて唸らされたんすがそれは横に置いておくとしてともかく)村上さんのラジオに関するインタビューがあって、そのなかで昨今の「分別より感情に訴えかける声高な発言」に対する違和感を次回のオンエアで発言する旨の部分がありました。ヒトラーを引用してる村上さんの違和感とはたぶんなにもかも違いますが(それが何を指すかわからぬものの文字をそのまま解釈すれば)「分別より感情に訴えかける声高な発言」はここのところずっと私も違和感があって、そしてどこか危険であると思っています。このおのれの感じた違和感や危険と思う意識はどこから来るんだろうと少し考え、おのれをふりかえれば理性的でないので事象を分解して言語化によって理性的であろうとすることを感情(例えば不安)に訴える言葉は見事に撃破しやすくて制御するのに苦労してて、そこからほんとは感情に訴える言葉は危険なのでは、と思考が転がっています。それに加えて情動を「エモい」という単純(で統制に使われやすい便利)な言葉で片付けられるようになったことが、漠然とした怖さがあるなあ、と。「エモい」について、改めて書いて・改めて考えるきっかけは、関係があるようでなさそうなそのインタビュー記事にあります。

確固たる教養がないので経験則と推測でしか言えず、あっちへ行ったりこっちへ行ったりまとまらず、書いてることの説得力もナッシングですが、なんだろ、ともかく「エモい」という言葉に警戒感を改めて持って焦ってこれを書いています。個人でできることなんて限られてるのですが結果的に時代から取り残されたとしても、もうすでにナウなヤングではない私はなるべくこれからもこの新語を使わぬようにします。

歳を取るとって書くとほんとおっさんになった感が強いのですが、新しい語句に対する寛容さももしかしたら年齢とともに変化することってないっすかね。無いかもですが。