「直情的」雑感

社会人になって最初、大阪に放り込まれています。直属の上司ではないのだけど職場にAさんという先輩が居ました。比較的怒りっぽい人で、たぶん何度か書いてるかもしれないのですが「おつかれさまです」という挨拶に虫の居所が悪かったのか「あんな、まだわたし仕事あんねん」と怒鳴られたことがあります。後で別の人から「お前は悪くない」とフォローを受けたものの、じゃあどういう挨拶がよいのかは謎でいまだに答えは出ていません…っておのれの若き日の謎を解きたいわけでは無くて。怒鳴るという直情的な行為は決して事態を解決に導くわけではないのでは?と考える切っ掛けになった体験のひとつです。

話はいつものように横に素っ飛びます。

15日付の毎日新聞ラサール石井さんがインタビューにこたえていて、「いつの間にか世の中が右に」という見出しがあり、似たようなことをなんとなく感じていたので、読んでしまっています。話がさらにズレて恐縮なのですが、SNSなどでラサール石井さんに対してラサール石井さんから見て直情的に批判したい人が居るという趣旨の発言があってその「直情的」という言葉が印象にかなり残りました。直情的というのは癇癪もちとかを連想させるあんまり良い言葉ではないし、直情的と判断されることを避ける風潮がなかったわけではないはずです。少なくとも私は上記の経験などから事態の改善にちっともつながりそうにないと思ってるので直情的に云うということを避けているのですが…って私のことは置いておくとして。

他人に対して直情的に文字にしてなにか言うということに関して、もしくは、直情的に見られることに関して、忌避が無くなったのだとすれば、それはどうしてなのだろう、ということを記事を読んでて考えていたのですが、もちろん答えはでそうにありません。もしかしたらこの設題すら間違ってるかもしれません。

ここから先はあてずっぽうです。

実は「エモい」という言葉が気になっています。以前エモい中年という言葉を目にしてどういう意味か取れずにいて「ああおれナウいヤングだからわかんなくてもいいや」と考えいたのですが…って話がズレた…話を戻すと、しばらく注視してると情動のようなものを「なにが」「どのように」と細分化しないで良い方向に評価する意味で「エモい」は使われてて、厄介なのは「なにが」「どのように」良いという他人への説明が無くても、つまり語彙がそれほどなくても、「エモい」という感覚を共有してる人の間では成立してしまうところです。「なにが」「どのように」というのを他人にわかるように具体的に脳内で考えないまま情動を文字に載せてしまうことに慣れてしまうと、自らの感情をそのままにつまり直情的なことを文字にのせることに躊躇がなくなるのかなあ、と想像します。それが直情的な発言への忌避がなくなりつつある現況と関係ありそうな気がしないでもないのです。ただこの穴のある自説があってる自信はありません。

若いときに刻まれた記憶というのはなかなか薄れないので、なるべく直情的になるのは避けるつもりではいます。とはいうものの、豆腐の封が巧く剥がせなくて口にはしてませんが「ああああああああっもう!」となってしまっています。それじゃダメじゃん