「深い」もしくは「深さ」について

はじめて人に説明する立場になったとき、使った言葉について質問を受けることがありました。そんなことが起きた原因は、自分が知ってるからといって他人が知ってるとは限らないことに起因します。そのときは平易な言葉で説明できましたが、その体験があってから、「ある言葉を知ったとしてもその言葉を他人に平易な言葉で説明できなければ意味がない」と考えて、他人に平易な言葉で説明できる程度に理解してない場合は新たに知った言葉をつかうことを禁じるようになりました。そんなしちめんどくさいことをしているので「エモい」といういまの世の中に溢れてる新語を知ってても私はまず使いません。新語に限らず意図的に使わない言葉がいくつもあったりします。その中のひとつが「深い」です。よく音楽や文学や絵画などを評価するときにでてくるキーワードで、匿名を奇貨として書くと実はそれがどういうことなのかよくわかっていません…って、私が音楽や文学や絵画に関して「深い」理解がないことの自白になっちまうのですが。

いつものように話は横に素っ飛びます。

お題「この前読んだ本」

を引っ張ると、今月に入ってから『小澤征爾、兄弟と語る』(小澤俊夫小澤征爾小澤幹雄岩波書店・2022)という本を読んでいました。主に口承文芸研究者である小澤俊夫さんと指揮者の小澤征爾さんによる小澤家のオーラルヒストリーの文章化で、正直途中まで読んで「最後まで読む必要ないかな…」と思ったことを告白します。ところが小澤征爾さんが長野で室内楽を教えてることに関連して

音楽ってむずしいよね。いろんな技術があるじゃない?技術のほかにも「深さ」なんてことを要求されたりする。「深さ」ってなんだかわかんないわけよ。おれもわかんないし、だれもわかんない。そうすると、若い人を「深さがない」ってけなす人もいる。「深さ」ってなんだろうということになる。深さがなんだかは、音楽の場合、ちょっと言いにくいよね…。文学なんかはまああるのかもね。(P134)

と「深さ」に関して語り出し、対して

文学の場合は活字になって本になるじゃない。だから読む人は、深さを追求するのに一ページにとどまって考えることが出来る。だけど音楽は一瞬だからな…(P136)

小澤俊夫さんが答えるなど、しばらく深さについて兄弟間のディスカッションがはじまりました。ハーモニーやチェロの低音などに話が絡んでゆくのですが、本書では明確な解が提示されてるわけではありません。でもその部分は私が疑問を抱き続けていたせいもあって、ちょっと刺激的に思えています。

さて「深い」をさして理解してないことを再度自白しつつも恥かきついでに書くと、本書を読むまで「深い」というのは細部を精緻に描き出すことであると思っていました。音楽の場合はテンポを遅くして仮に弱音でもしっかり聴こえるようにすること、文学の場合はあいまいな描写を避けつつ淡々と精緻な描写をを続けること、などと思っていました。それが正しいのかそうではないのか、いったい「深さ」とか「深い」とはなんなのか、本書を読んでからよりわからなくなっています。本を読んで謎が深まる経験ってのも珍しいですが。

音楽にも文学にも縁遠い生活をしていてこれらのことは「ほんとどうでもよい」のですが、どうでもよいことほど気になることってないっすかね。