溺れる

音楽というのは不思議で同じ曲でありながら演奏家によってちょっとずつ違ってきちまいます。たとえば有名なベートーヴェンの5番で、しょっぱなの有名な「タタタ」「ター」の三連音がありますが、(休符を含めてン)「タタタ」のあとの「タ」の部分をベルリンフィル音楽監督に就任したころのサー・サイモン・ラトルはそれほど残さずにすっと回収していました。よく運命動機といわれてて、ドアのノックする音だとか諸説があるのですが彼は「若き日の雄叫びもしくは咆哮」という解釈でそうしたのです。聴いたら目からうろこというか知っていたはずなのにそれまでと全く違うように聴こえてくるから不思議です。
同じ曲でありながら演奏家によって異なるということを私が自ら発見したわけではありません。ずいぶん前に親しい人がそれとなく誘導しました。マーラー交響曲を知り小澤征爾さんので一通り聴いたあと、誘導されたレナード・バーンスタインマーラー交響曲を聴いて小澤さんと異なる世界に衝撃を受け「違いがわかる男」となり、そこからいくつかの解釈から一つの曲を眺めることのを深さを知り、ずぶずぶと沼にはまるように(はてな今週のお題が「私の沼」なのですが)、音楽に溺れてゆくようになりました。マーラーでも指揮者が違うものが数枚あります。でもってよせばいいのにお茶の水にある中古CD店に出入りするようになり、正規ルートで販売されてない欧州直輸入のCDに手を出しはじめます。
でもってマーラーの6番で、マリス・ヤンソンス指揮のロンドン響のライブCDを持ってるんすが、ロンドン響オリジナルのレーベルで解説はあることはありますが直輸入盤なので当然英語です。つくづくバカだなあと思うのですが、マーラーの6番を聴き比べてて気になるところが出てきて「一度ポケットスコア(楽譜)を閲覧したいなあ」ってなことを考えています。そんなことしてなんの得にもならないのですが、のめり込むと損得関係なくなってきます(同じ交響曲を複数枚持ってる時点で既におかしくなってるかもですが)。
ヲタクというのがなんなのか、というと定義が難しいかもですが、消費行動が極端になりがちになりやすいのではないかと思います。良いと思ったものに触れてしまったが最後、ホントにそれが必要かどうかなんて考えず・損得にとらわれず、重力場に捉えられてぐるぐる廻りながらスピードをあげてブラックホールに突っ込んでゆく流星のような、ヲタクというのは、そういうものだと思うのですがどうでしょうか(日記なのに誰に聞いているの?)。