あきたのにすてられないもの


そもそも、飽きた、ということがよくわかっていないのに、こんな記事をあげてしまっていいのかどうかわかりません。



飽きたから捨てたとか、飽きないから手放さないとか。手に入らないから、欲しがることに飽きてしまったとかいいます。
で、「飽きる」≒「興味を失う」ことなのかどうかはちと実はわかりません。
また、なんとなくつまらない、なんとなくやる気がしない、とか、不定愁訴みたいなものかもしれないということだけはわかりますがそれがほんとに世間で言う「飽きた」という感情なのかどうかはちとわかりません。
自分を分析すればB型特有の「熱しやすく冷めやすい」とでもいいましょうか「飽きっぽい」性格かとおもいます。ただ、個人的にはたぶん飽きというのはいつかやってくるはずで、何に飽きているのかを掴むことができれば、対策を講じることができるはずとおもってるので、人生に飽きたりしないで、生存してるのかもしれません。




あるスーパーでの話です。
パン製品の売上がイマイチ芳しくなく、値下げしたりしてテコ入れを図ったもののイマイチで、結果Y社じゃなくて試しにP社にしたところ売上が伸びた。じゃ、P社が売上がいいのならとP社をメインにすえようとしたら数ヵ月後には、売上は落ちて状態はY社と同じになっていた、という話があるそうです。ようは同じものをずっと口に入れ続けてると飽きる、ということなのだとおもいます。たぶん、飽きる、とは同じテイストが続くことにより嫌気がさすことをさすこともあるのでしょう。(私はコカコーラがペプシコを叩きのめさないのは、コカコーラが一社独占となったときに、飽きられてコカコーラが売れなくなるのを怖れてるせいかもしれないと睨んでます。違うかもしれませんけど)。



大学生のころ、バイト先の社員食堂で確か200円くらいの筑前煮定食ばかり喰い、浮いたお金で書籍や旅行やデートの足しにしてたり、買った本を何べんも読み返したりしてました。あの頃は筑前煮に飽きててもがまんできましたが、いまは吉野家松屋豚丼をなんか味がくどいというかいまいち飽きたとかいってがまんできなくなってます。明治製菓の銀座カレーも飽きましたし、「キャベツのうまたれ」という調味料が気に入り、東京へ買って帰ってキャベツによくかけてたのですが途中で同じテイストが続くことにより嫌気がさし飽きてしまいすてちまいました。いまより金が無かったとき、絶対しないことだったんですが。食べ物を飽きたから捨てるなんて。
舌が肥えたのか、がまんができなくなってるのか、金があるからといって単におごりたかぶってるのか、よくはわかりません。可能性として驕りたかぶりのほうかもしれません。
金は昔より持つようになりましたが、何か重要なものををどこかで落としてきてしまった気がしてなりません。嫌気の我慢ができなくなりつつあるようです。まずいなあ。


以前は別に飽きがきてもがまんができました。多少の飽きや嫌気は何とかなったのです。
最近はちょっとしたことでも、飽きが来ると、なんか簡単に避けたり手放したりしています。


昔はどうでもいいような本は図書館で借り、どうしても読みたい本はやりくりして買って、その本をなかなか捨てずに繰り返し読んでたりしたのですが、いまは興味が失せたり飽きたらヘーきで容赦なくブックオフへうっぱらっちまいます。今回、秋ゆえに飽きたものがあるかどうか、本棚を探してみましたが、そういう本は既にブックオフ行きなので手許になかったりします。
また実は数年前に引越しをして、だいぶ私物不用品等を処分してまして捨ててしまったものも多く、どうしようかとおもったのですが、で、現在の手持の中から捨てられないものをあげておきます。金に困ってもおよそ最後まで売らないであろう物です。↓



またぞろ、おなじCDをここであげるのは非常に心苦しいのですが、好きな曲ですが実はある意味でほんとは飽きています。CDを聴いている以上は同じことの繰り返しで、かつ、既にいやというほど(軽く250は越えてるかなあ)聴いているのですから、新しい発見なんてありません。けど聴いてしまうのです。捨てられない。この曲このCDがなければ、この世にいなかったかもしれないし(私もほんとしつこいですね)。たぶん5年以上ずっと聴いてて、80分強の長い曲ですが、鼻歌というか口ずさみで最初から最後まですべてをうたいきる自信があります。内容は単純で暗から明へ行き、復活するのだ、というメッセージで終わります。

マーラー:交響曲第2番

マーラー:交響曲第2番







これもそうですね。飽きてはいるのです。けど聴いてしまうのです。絶対捨てられないです。
ちと病的な曲です。向こう岸へ渡る寸前というか、健康的ではありません。たぶん捨てられないのは、これがキチンと病的でありながらも纏まっているからでしょう。病的なんですけど、現実と結びついてるというかなんというか。不健康な、向こう岸へ渡ってしまうかもしれない自分がいて、たぶん聴くことによって岸辺に佇んで向こう岸を眺めて、深淵を見て、帰る追体験をこの曲でしてるのだとおもいます。自分が病的であるという自覚が無くなったりしたら捨てるかもしれませんが。
これもほぼ最初から最後までメロディラインをうたえます。ちょー絶演奏です。足踏みや鼻息は聞こえますが






開高健『歩く影たち』
これは大学一年生の春に買った本ですね。中にある「玉砕ける」が個人的に痺れた短編です。この本も飽きてますが捨てられない。この作品が書かれた頃と現在は違いますが、この作品で示された課題というのはいまでも尾を引いています。私は答を持たないです。

歩く影たち (新潮文庫)

歩く影たち (新潮文庫)











飽きていても、何で捨てられないか、は、わかっています。
自分を今構成してるもののひとつというか、この世に引き止められたもの、なければならなかったもの。飽きたけどもいまここにたどり着くために酷使した地図みたいなもので、これらの品物は飽きたからといってやはり捨てられなかったりします。