『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を読んで

バカにされそうなことを書きます。

前に『コンサートは始まる』(カール・A・ヴィーランド著・木村博江訳・音楽之友社・1990)というボストン響のドキュメントの本を読んでいます。その本の中で小澤さんは曲を研究する際に分解し、重要と思える「集結点」を探し、くわえて複数あるであろう集結点の間に「溶解点」が存在することを著者に述べています(P109)。簡単なソルフェージュは経験があっても音大を出ているわけでは無いので「集結点」と「溶解点」というのがわかるようでわからないのですが、私はバカなので小澤さんが振ったCDを購入して聴きそれが何度目かのリピート時にある小節を「もしやここが集結点なのかな?」と推測したことが無いわけではありません。もちろんいつもそんなことをしていたわけでもありませんし、そしてそんなことして何になるのかといわれるとぐうの音もでません。ぐう。

いつものように話は横に素っ飛びます。

小澤征爾さんと、音楽について話をする』(小澤征爾村上春樹新潮文庫・2014)という本の中にマーラーの1番『巨人』について話をしている部分があります。詳細は聞いていただくと判るのですが唐突に雰囲気が変わることがあって小澤さんがそれについて解説するものの

村上「やっている方はあまり意味とか、必然性とかを考えちゃいけないということなんですか?ただ楽譜に書かれてるものを懸命にこなしてゆく?」

P267

というように村上さんは腑に落ちないことをそのまま受容することはなく食い下がりさらに小澤さんが説明を加えるものの

村上「そういう筋をつけて考えるといい、ということですか」

小澤「うーん、ただそのまま受け入れる、というか」

村上「物語みたいに音楽を考えるというのではなく、ただ総体としてそのまま音楽をぽんと受け入れる、ということですか?」

P267およびP268

とさらに食い下がります。このあたり初見のときはなにかしらの核心に迫っている気がしてならず、読んでいてヒリヒリしていました。ついでに書いておくと頭が空っぽであることの自白になってしまいますが曲の中で重要と思える集結点とか溶解点をたまに考えてはいても必然性とか意味とかさして考えずに聴いていてああそういうアプローチもあるのか…と、気付かされています。でもって、このトピックの結末は是非本書をお読みいただきたいのですが、結論だけ書くと稀有な才能を持った音楽家が生み出した果実を耳にしていたのだと理解しています。なお本書はマーラーについて語られた第4章以外にも第6章の教え方についての話など興味深いところがあります。

お題「この前読んだ本」

を引っ張ります。小澤さんの訃報が掲載された新聞を読んでから本棚から本書を引っ張り出し、過去に気になってしおりを挟んでいたところを中心に再度ぱらぱらと読んでいました。「集結点」や「溶解点」は相変わらずわからぬものの・音楽は専門外ではあるものの、腑に落ちないことをそのままにしていない本書のおかけで音楽(特にマーラー)についての知識がいくらか増え、理解が深まった気が。理解を深めてどうするの?と云われるとキツイのですが、音楽は理解が深まると溺れやすくなり、その溺れてる時間が至福になったりしませんかね。しないかもですが。