蛭子能収著『ひとりぼっちを笑うな』を読んで

以前太川陽介さんと蛭子能収さんそれに毎回異なる女性ゲスト1人の3人が行くローカル路線バスの旅というのをテレ東系で放映していました。3泊4日でひたすら路線バスのみを利用し、著名な観光地も場合によっては素通りして目的地まで行くというドキュメンタリー的な番組でなぜか気になって、録画したものを視聴したことをここで書いた記憶もあります。その路線バスの旅では太川さんがイニシアチブをとることが多かったのですが、蛭子さんは空気を読まず云わないでいいことをわりと口にしていました。たしか広島の三原あたりでコインランドリーがあるところで泊まりたかったけど距離を稼ぐためにそれが叶わないとなるともちろん従うものの、でも若干露骨に・しかしニコニコしながらちゃんと不服を表明します。その蛭子さんの姿勢は

「空気を読むとか調和を考えることは一見よいことのように見えることはほんとは健全なことではないのでは?」

という素朴な疑問を観てるこちらにもたらしました。以降、空気を読むという行為に疑義をもつようになったのですが…って私のことはさておき。

ここで

お題「この前読んだ本」

を引っ張ります。

最近『ひとりぼっちを笑うな』(蛭子能収角川oneテーマ21・2014)という本を読んでいます。前書きに(あからさまに)書いてあるのですが本書は(おそらく路線バスの旅を視聴したと思われる)編集者からの提案で行動原理や半生などを記したもので、行動原理はかなり明快に書かれています。詳細は本書をお読みいただきたいのですが、少しだけ紹介するとひとつは孤立の肯定です。第一章「群れずに生きる」の中に自由でいるために必要なこととして

そのためには群れの中に、自分の身を置いてはいけません。なぜかって?それは、無言の圧力を感じるのは、その人が群れの中にいるからです。(P20)

という分析をしています。つまるところ、太川さんと旅をしながらもその群れの中に身を置いてる意識はないはずで、ゆえに云いたいことを云えるわけで。なぜ云わないでもいいことをいうのだろう?という謎がひとつ解けています。もちろん個人的には会社組織という群れに属してしまってるので本書を読んだところでマネはできませんしあまり参考にはなりません。ただ「そういう選択肢がある」ということを蛭子さんは上記の番組で身をもって提示してるのを目撃したわけで、ちょっと唸らされています。

また本書に唸らされた点をもう幾ばくか書くと観察眼が鋭いのです。海外へカジノへ集団で行った経験から仲間と居ると気が強くなり集団でいると人は横柄になる傾向がある(P34)と喝破し、また集団の中にいるときの個人とひとりぼっちでいる個人は差異があり、集団でいることの弊害も記されています。その観察眼の鋭さは本書にも少しだけ触れられているのですが、風俗街や競艇場での人間観察(P174およびP175 )によって養われたようで。令和になったいまは蛭子さんは病を得てしまっていますが、稀有な視点を持つその批評をもうちょっと読みたかったかな感があったり。

最後にどうでもよいことを書きます。

ここ数年、青春ブタ野郎シリーズというラノベを追っていてその中に「孤独が嫌なのではなく、みんなの輪から外れてる自分を、みんなに見られるのが嫌」「どこかバカにされたように笑われることが、なによりも嫌」(「青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない」P110・鴨志田一電撃文庫2014)と考える女子高生が出てきます。フィクションではあるもののそれを読んでから孤独の問題は周囲からの評価の問題なのではないか、という仮説を私はもつようになりました。本書では蛭子さんは個人が集団の中に入ると「自分たちのグループに属している人と、そうでない人を明確に区別するようにな」り、自分たちと他の誰かを区別することがエスカレートすると差別になり(P40)、そしてその差別的な感情は「誰かを見下したい」というネガティブな欲求と結びついてるのではないか(P41)、と説きます。先行してフィクションを読んでいたせいか妙に説得力を感じていて、と同時に、集団に属するか否かで発生する孤独の問題の厄介さと解法のなさを改めて認識してます。なお上記のフィクションでは蛭子さんと同じく「群れずに生きる」道を選択します。人生経験豊富な蛭子さんとフィクションの女子高生を同列に並べてよいのかわかりませんが、結果が同じなのが興味深かったり。