イケメンというのは何かというと、それを分解するとなんとなく判ります。モデル体型であったり、顔が美男子であったり、とかいくつかのわかりやすい最大公約数的な条件がいくつか合致してる場合です。この条件に合致するのが○○というこの考え方ってのはおそらく世の中の幾つもの場面で出てきます。たとえば、勉強ができるのが良い子、みたいな。じゃあほんとに勉強できたらそのこは良い子なのか、っていったらそれはわかりませんが。
その条件に当てはまったほうが良いんだけど当てはまらない場合、当てはまらないことに苦悩します。巨根ってのがいい、という雰囲気の場合、巨根ではないことを隠したくなります。顔が絶世の美青年でない場合、男は顔じゃないハートだよとか、他人を否定しはじめやすくなります。その言葉はえてしていくつかの最大公約数的条件に合致しないこと・差異があることに関してであったりします。それらをまともに受けとめようとすれば疲弊します。なんのことはない、差異があるときにその差異がどうしようもないときは、いかんともしがたい、ないものねだりの嘆きだからです。
いわゆる「マジョリティ」とか「マイノリティ」という概念もおそらくその条件合致でなりたってて、条件合致数が多いというか共通項の多い場合がマジョリティで、そうでない場合はマイノリティなんだろな、と推測しています。もしかしたら違うかもしれませんけど。ただほんとマイノリティはマイノリティたらしめてるのは何かっていったら、いくつかの他のひととは違う差異であって・あいまいな説明しにくいもので、なおさらそれが差異がある理由を他人に簡単に説明するのが困難で、説明を求められると非常に厄介なのです。セクシュアリティに関することならえてして「他の人が可能なのになぜそれができないの」という単純な問いででてくるんすけど、それにこたえるのが厄介で、うまく説明できないと「かわいそうな人」・「変な人」で終わってしまうところがあります。だから最初っから黙っちまうところがあったりします。ほんとは政治的にはそれではいけないのかもしれませんけども。
「他の人が可能なのになぜそれができないの」という問いはセクシュアリティに関することだけではありません。人は多かれ少なかれ差異があるので、誰かができても別の誰かができないのは決しておかしな話ではないのですが、場合によっては不思議なくらい忘れられることがあったりします。
「他の人が可能なのになぜそれができないの」というのはシビアな問いです。他の人ができることがなぜか条件になっててそれに合致できないとなぜかと問われちまうのですけど、婉曲的にそれができないことが他人と同じスタートラインに立てないアウトの宣告・脅迫になりやすかったりします。また他の人がそんな意図はなくても「あいつは投げるのがはやいから」とかいわれると、ああ俺は速い球投げられるから認められるのだな、ってな方向に行きやすかったりします。「なにかの条件が合致することによって認められる」というのを経験してそれが変な方向へ発酵すると、人に認められる嬉しさと同時に、人に認められるかどうかというものさしができ、おのれの存在が「○○ができる」「○○ができない」とか条件付きで他人に認められるかどうかにかかり、その条件を満たすかどうかが不安になったりしはじめ、希望と絶望を往来するように・常に自分がオッケイかアウトかどうか、無能感と有能感を気にするようになります。ここらへんオトナになった今、他人のものさしを自らに当てはめることが変だって気が付いたから抜け出すことができたのですが、受験も浪人せずにそのままいっちまったせいもあるのですが、けっこう抜け出すまで時間がかかりました。
条件ってのにかなり縛られてた頃、えっちのときにパーフェクトを常に目指してました。肩を並べる・認めてもらう条件だと思ってたのです。パーフェクトでなくともテストでないんですから構わないのですが、自分のなかでパーフェクトでないとおもったときに、異性に対して、異性が不満を洩らすことの恐怖があって、先手を制してごめんと謝ったこともあります。同性に対しても同じことがあって上手くいかなくてパーフェクトと思えなかったときにやはり先に謝ったことがあります。何で謝られるのか判らない、といって何度目かに理由を訊かれたこともあります。簡単です。下手で、捨てられるのが怖いからです。捨てられるのが怖いからってのが他人のものさしで、あのねそんなことで捨てないし、一人だけ気持ちよくてもしょうがないでしょう、ってなことをいわれて、腑に落ちたのですけども。
オトナになった今、別に「なにかの条件に合致することで認められる」というところから離れています。いや別に他人は他人ですから、みたいに他人のモノサシをそこそこ拒絶できるようになってます。変な人でもいいじゃん的な開き直りもあります。もちろん周囲や上を通過する人がそれなりにいて、おまえはそれでいいんだよ、みたいなサインを送ってくれてるので、なんとかなってるところがあります。それでもたまにこどもの部分を引きずってるのかふとした拍子に「なにかの条件が合致することによって認められる」と思ってた頃を思い出し他人ができることができなくてああなんだかすいません的なところがでてきてうわあああああああ、となるのですが、よく40にして惑わずなんていいますが数年先にはおさまってるのか、いまいち自信が無かったり。