「壽屋コピーライター開高健」を読んで

壽屋コピーライター開高健」(坪松博之・たる出版・2014)という本を読みました。壽屋というのはいまのサントリーで、小説家である開高健さんは壽屋=サントリーのコピーライターとしても活躍していました。本書は開高健さんの書いたと思われるトリスをはじめとするコピー、そして壽屋およびサントリーの宣伝の歴史などを的確かつ緻密に紹介しつつ、小説家開高健の著作やコピーライター開高健の作品やその周辺について言及した本です。開高さんの死後に開高作品を読みはじめた一読者からするとかなり興味深く、このような本を関係者が残しておいてくれたのはありがたいことであったりします…って私のことはどうでもよくて。書かれてる内容は多岐にわたり、語彙力がない上に低速回転のわたしの頭では「コピーライターとしての開高さんと作家としての開高さんは切り離せないのだな」「すごい人物だったのだな」という月並みな感想しかでてこないのでぜひ本書をお読みいただきたいのですが、それで終わらせてしまうのはもったいないので、隙間から握った砂が零れ落ちてしまう怖さがあるのですけどキモかもしれないと思った点を3つほど触れておきたいと思います。

ひとつはコピーライターの経験が作家の文体に与えた影響です。

作品の中には二人にの開高健が居るように思われ、表現しがたい事物に挑み漢文調の言葉を駆使し、時には対立する言葉を用いて完全なる表現を求める。いわば「何をどう書くか」、という開高健と、最後の一文に見られるような平易な言葉遣いと洗練にこだわる、「どう伝わるか」という開高健である。ひとつの頂を目指しあらゆる言葉を携えてのぼりつめようとする開高健と、表現のすそ野を目指して注意深く一歩一歩下山する開高健である(P136)

引用した部分はまるで開高さんが憑依したような表現なのですが、たいした語彙力があるわけでもない・文学なんてちっともわかっていない私が開高作品にのめりこめたのは確実に坪松さんの指摘する「どう書くか」「どう伝わるか」を考え抜いた開高さんの文章だからこそで、ひどく腑に落ちています。そしてその表現アプローチは広告制作の中で習得したのではないか、と。特にリズム感を挙げ、実例として夏の闇の一文を挙げ

コピーのように改行を加えると洗練さが強さを増幅してる、とも述べています。

もうひとつは広告でも途中から内面を露出するようになった(P203)という指摘です。加えて書くと作家としての開高健にコピーライターとしての開高健が引き寄せられてる時代があった、といえばいいかもしれません。坪松さんは文学とコピーライティングをすべてきれいに重ね合わせることはできないと留保をつけつつ

「内面から外界へ、そして再び内面へと向かい、その葛藤から一つの表現スタイルに到達するという同じ軌跡を描いてるように感じられる」(P204 )

とも指摘します。小説としては「裸の王様」などを経て内面に向かう「なまけもの」という作品を書いたあとベトナムに向かい「ベトナム戦記」「輝ける闇」を書きあげ、さらに内面に向かう「夏の闇」と連なることを紹介していますが、妙に腑に落ちています。広告も初期は季節に沿ったものなどやウイスキーを買ってしまう心情を描いたものなどがあるのですが途中から変化し内面をつぶやくような文体になります。有名な「人間らしくやりたいナ」というつぶやく系統のトリスウイスキーのコピーがあって、本書ではじめて知ったのですがそれは作家として海外へ行きアウシュビッツ等を見学した後に出てきたもので、そう考えると作家が葛藤した上で内面を露出した・紡ぎだした言葉にも思え、表面上の語句はともかく実質は叫び(もしくは絶望を経たうえでの嘆息)に近い様相を帯びてるような気がしてきます。

そしていちばん重要かもしれないのはコピーや小説における対立表現です。「飽満の種子」では7種の対立表現がひたすら出てきますし、小説の名前にも「輝ける闇」というのがあります。壮年期のサントリーオールドなどのコピーでも対立表現があることを本書を読んで知りました。対立表現を並べることで事象の輪郭を浮かび上がらせることができると指摘したうえで

真実とはいったい何なのか。作家として、表現者として目に見えている事象について常に懐疑の気持ちを抱き続けてきた。なにが正しいのか、何が本当のことなのか。対立する言葉による表現は、なんとかしてその真実にたどり着こうとする開高が見出した表現スタイルであり、開高文学の本質である。(P304)

と坪松さんは喝破しています。おおむね同意で全く異論はないのですが、本書はさらに踏み込んでサントリーウイスキーは対立表現の宝庫であること、対立する言葉をウイスキーの広告に持ち込んだのは開高さん(と開高さんの本を読みこんだ東条さんという映像作家)であることに触れています(P310)。開高さんが書いたわけではないものの「なにも足さない なにも引かない」という対立表現のコピーは多くの人が知るところで、そういう点からしても「後世に影響を与えた人だったのだな…」と目からウロコでした。

さて、本書はコピーライターおよび小説家としての開高健について書かれていますが、最後の一章はそれまでと趣が異なり開高さんの死と死の前後のこと、死後に語られた評論、そして最後に俳号を持つ(開高さんを壽屋に引き込んだ)佐治敬三さんの憔悴ぶりと開高さん亡き後の俳句への傾倒が描かれています。文学も広告も俳句も門外漢でわかりませんが言葉というものの重要さをその章で間接的に浮かび上がらせてる気がしています。最後の章が無かったら本書は単なる資料的価値のあるもので終わっていたと思いますが、最後の章が有ることで単なる資料的価値のある書物にとどまらぬものになってるはずです。

最後にくだらないことを。

開高さんは言葉の職人ゆえになんとか言葉で表現しようと・描き尽くそうとしたゆえに、例えば「言語を絶する」というような言葉を使わずにいて周囲にも注意し、なので料理やワイン、ミステリや映画の感想を述べるときに周囲は極めて強い緊張を強いられた(P119)と書いてありました。妙に印象に残って一週間くらい文字にしないまでも舌で感じたことをなるべく言語化しようと試みたのですが、挫折しています。作家志望やコピーライター志望ではないからどだい無理な挑戦ではあったのですが・比較してはいけないと承知してますが、体感としてもやはりすごい人だったのだな、と。