愛知の芸術祭のこと

きっと繰り返し書いてることなのですが、何度でも書きます。こどものころに割礼を経験しています。なぜ割礼をしたのかは、親が居ない今はわかりません。もちろん周囲にはそんなのは一人もいません。みんなダビデ像と同じです。なので水泳の着替えは憂鬱で異質な下半身に劣等感もありずっと隠すべきものでした。水着を着てけばいいんじゃね、と思いつき、実行したこともあります。泳いだ後は着替えなくちゃなので裸にはなるのですが、一回は回避できます。いまから思えば噴飯ものですが、当時はわりと真剣に考えていました。いまでこそいろんな情報を検索で知ることはできるかもですがWindows 95がちょうど大学生の頃で、つまり重篤な思春期の頃はインターネットの時代より前なので、部位が部位ゆえにおのれが異質ではないということを知ることはできてません。無修正ビデオは世の中にあったかもしれませんが、ビデオデッキはうちにはありませんでしたし。異質でないことを知るのと劣等感が消えたのは童貞と処女を失ってからです(よいこのみんなはわかんなくていいです)。
この文章を書いてるヤツは品が無いうえに知性のかけらもありませんがいちおう大学は法学部(自称あほうがく部)卒です。法学部は憲法を学ぶことになるのですが、言論の自由表現の自由に付随する説明で「各種の情報や表現を制約なく受け取り・知ることにより人格形成に資する」という趣旨の一文に接してます。性器にまつわる表現の規制があっておのれを異質ではないと確信することが持てずにいた私は、その一文が腑に落ちてます。劣等感を持っていたときにもし各種の情報や表現にもし接していれば、おのれが異質ではないことを知っていれば、劣等感を感じずに済んだかもしれない、という意識があります。下半身にまつわる体験で非常に云い難いのですが、くりかえしになりますが言論の自由表現の自由の大事な部分のひとつは「各種の情報や表現を制約なく受け取り・知ること」であると思っています。

話はいつものように横に素っ飛びます。

名古屋市豊田市で行われてる芸術祭で展示されてる一部の作品に関しての反発があり、ガソリンによる放火も辞さない旨の匿名の通知があったとの報道がありました。安全はすべてに優先する(と教育されてきた)のでその後の県や当事者の対応は常識的対応だと思っています。が、それが仮に反発を招きかねないものであったとしてもそれについいてみた側が反応を強制されずに反論や意見感想を自由に述べることができる限りは「多種多様な情報や表現を制約なく受け取り・知ることは重要」であって、その機会を意図的につぶしたことは被害者は無いもののテロに近いと考えます。気に喰わないものは放火する、というのが罷り通るのは焚書坑儒と同じです。知らず知らずのうちに、なんだかとんでもない世の中になっちまったなあ、と。

願わくばこの被害者の無いテロが、芸術や文化の萎縮の原因にならないことを願うばかりなのですが。