おのれの愚かさについて

名鉄百貨店の前にはナナちゃんがいます。

けっこうでかくて、それが通路の真ん中に仁王立ちしています。名古屋にはじめて来た時は「なんだこれは」とまじまじと眺めてしまったのですが、そんなことしているのは私だけであたりまえのようにだれもが素通りしていました。たしかに慣れてしまうと気にならなくなります。じきにナナちゃんのそばをわたしもよく素通りしていました。ナナちゃんのそばをよく素通りしてたころ・名古屋にいたころ、いったん撤退したものを再度軌道に乗せることをミッションにした部署に下っ端として居て、トライ&エラーを繰り返していました(軌道に乗せたあと私が東京に異動して数年持ちこたえたものの結果としては再度撤退してしまうのですけど)。トライ&エラーを含め名古屋にいたときの経験は確実に血肉になってて、いまでも名古屋にはちょっとだけ思い入れがありますし、いまでもナナちゃんを眺めるとその頃を思い出します。はてな今週のお題を引っ張って好きな街と問われれば名古屋も好きでセットでナナちゃんが思う浮かぶのですが、それはおのれの経験に基づく思い入れというか、濃密な時間を過ごしたことによるもので、やはり他人に筋道だてて合理的に説明できるものではなかったり。でもって魅力の欠ける街ランキングという調査で2年連続で名古屋が1位なんてのを新聞で読んで、(有松や中村遊郭のあたりは別として熱田神宮名古屋城などに古来からの建築は空襲で焼け落ちてしまってるので街に風情はそれほどないので)理解できなくはないのですがおのれが好きである街が否定されるとやはり悲しいところがあります。
話がいつものように脈絡なく素っ飛びます。
村上さんの「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」について文学部卒じゃないから文学かどうなのかは私は知りませんがともかく本を読んでいて村上さんに時間をつかってしまっています。「仲間外れにされた経験ってのと、傷ついた気持ちは長く残る、それについて書きたかった」って村上さんは(2014年8月25日付の)毎日新聞で述べてて、生きていくうえでしんどいことにどうやって向き合うかってのは私はずっと抱えてるテーマで読んだことを後悔はしていませんし大事な経験であったと思っています。でもって、はてなでいろんなものを読ませてもらってて、村上さんについて「格が」というよくわからない部分でこき下ろしてるのを読んだことがあるんだけど読んだときにもやもやして、いまでももやもやは残ってて、そのもやもやは時間を消費したことに関してムダって云われてるような気がしたからなんだろうな、と理解しています。
その時間を消費した対象に難癖付けられるとたぶん、穏やかではいられないんだろうな、と。
愚者は経験に学ぶっていいますが私は経験した時間から離れられない愚者であったりします。時間や経験と密接に関連するおのれが好きな対象や大事だと思うものを否定されちまうと穏やかではいられないのですけど、おのれが好きと思うものや大事なことと思うものを他人に理解してもらう必要がほんとにあるのかというとそれはわかりません。ただ他人がどういう評価を下そうと、おのれが好きと思うものや大事なことであると思っていることはこっそりと、でも曲げずに持っていたほうが良いのではないか、と書けばあたりまえのことを、愚者なりにここ数年考えてるんすけども。
でもたまに、愚かなのでおのれが良いと思うものや大事だと思ってるものに関して否定的なのをみると「うがあああああ」となるんすが。