「自己有用感」(もしくは「なにかを読んで別のなにかを理解すること」について)

世の中どんどんシビアな方向へ全速力で向かってる気がするのですがいつものようにくだらないことを書きます。

一昨年から「青春ブタ野郎シリーズ」というラノベを読んでいてここで書いてきていて、そして最新刊が一昨年の「青春ブタ野郎ナイチンゲールの夢を見ない」(鴨志田一電撃文庫・2020)でした。いくばくかのネタバレをお許しいただきたいのですが、真面目で正義感を持ったヒロインが登場し物語の中で登場人物の言葉を借りれば

「だけど郁実は違う。ひけらかすためのものでも、マウントをとるための活動でもない。本当の誰かの助けになろうとしてて…時々、気持ち悪い」

(「青春ブタ野郎ナイチンゲールの夢を見ない」P168)

と云われるくらい本当に誰かを助けようと行動します。ナイチンゲールでは通奏低音のように流れているテーマのひとつが「正義」または「正義感」もしくは「正しさ」で、いったん理想にして取り込んでしまうとどう拘束しておのれを殺すかを・羨むくらいの他人とおのれを比較することがどれだけおのれを殺すかを、肝心かなめの時に何もできなかったことの無念さを含めてフィクションにのせながらほんのちょっと残酷に描かれています。ただ読んでから日が経過するにつれ、真面目で正義感があったとしても・よくできた他人がいて羨んだとしても、気持ち悪いくらいに本当に誰かを助けようと行動するだろうか?とはうっすらとした違和感がありました。うっすらとした違和感を解消しようとして物語を去夏に読み返したのですが度数の高い酒を呑んだようなヒリヒリした感覚がぶり返してきて、読前の疑問などどうでもよくなって放置して熟読しちまってます。それじゃダメじゃん

いつものように横に素っ飛びます。

今朝の毎日新聞(12日付朝刊)で、日本近代史が専門の加藤陽子東大教授が作家の温又柔さんとの対談に出ていて、ある問いに対して、内閣府の調査を引用しつつ

「日本の若者は自分が役に立たないと感じるほど自分に不満か傾向がある。この自己有用感の低さが関係するのではないでしょうか」

と答えていました。この自己有用感という言葉にぴんときて、飛躍して恐縮なのですが自己有用感という語句をナイチンゲールを読んだあとのうっすらとした違和感に代入すると違和感が溶けています。自己有用感が低いゆえに気持ち悪いくらいに本当に誰かを助けようと行動して自己有用感を得ていたのかも、と。腑に落ちたのでいずれもう一度どこかで時間をとって上記のナイチンゲールを自己有用感に留意しつつ読み返すつもりです。二度あることは三度あるといいますから度数の高い酒を呑んだようなヒリヒリ感がぶり返してどうでもよくなってしまうかもしれぬのですが。

話をちょっと厄介な方向へ持ってゆきます。

先ほど書いた紙上の加藤教授の答えは去年の衆院選にについての質問についての流れの中で出てきました。引用すると

毎日新聞:現代に話を戻すと、去年の衆院選をどう思いましたか?

加藤さん:若い世代の4割が自民党支持とされていますが、体制支持というより、当選しそうな人に投票して、当選すれば「正解した」と、ほっとするのだそうです。

温さん:正誤の基準は、多数派かどうかなのですね。

という問いと答えがあり、続けて新聞社側からなぜそんなにも「間違えたくない」のでしょう?という問いに対して(以下、繰り返しの記載になるのですけど)「日本の若者は自分が役に立たないと感じるほど自分に不満か傾向がある。この自己有用感の低さが関係するのではないでしょうか」と回答しています。私は二次不等式をやってますから世の中には解なしだってありえるじゃないかと考える程度にひねくれてる上に若い世代でないこともあってその語句が脳内に無い上に自己有用感的なものとは無縁で、加藤教授の説は斬新かつ腑に落ちるものでしたって、わたしのことはともかく。引用した加藤説温説が仮に正しかったとしたら、正解当てゲーム・多数派当てゲームで世の中が動くことになるのでそれはちょっと怖いなあ、という気が。そしてそれが自己有用感の低さに関係するものであるのならば、なんでそうなってしまったのかを含め、解かねばならぬ課題は山のようにある気がしてならぬのですが。加えて正誤の基準が多数派≒他人と共通してることが重要、ということであるのならば、なんだろ、以前読んだことのあるラノベそのもので、ちょっとフィクションであって欲しい・事実は違ってほしい、と思っちまうところがあります。

話をもとに戻すと、何かを読んでそれで得たものを過去の読書体験に代入することで過去に読んだ本を改めて理解するってことってないっすかね。私はたまにあって、もう一度読み返そう…ってなって、読みたいけど読めてない本が貯まっちまうのですが。