その場の空気の話(もしくは不可視のものをあれこれ考えてしまった悪癖)

少し書きにくいことを書きます。

今年に入ってから読んだラノベのひとつ、「青春ブタ野郎ナイチンゲールの夢を見ない」は赤城郁美という女の子がヒロインで実は何者かになりたかった正義感が強い女の子の話で、(度数の高いお酒を呑んだようなヒリヒリ感を味わいつつ)それを読んで、いったん正義感というのに支配されると傍から見ると滑稽なほどにそれが行動規範になりかねない、という感想を持っていました。不粋なこと≒ネタバレを少し書くと赤城さんは同じクラスのシリーズ通しての主人公である梓川咲太が学校で孤立して窮地に陥ったとき救えなかったことをずっと引きずっていてそれが正義感に若干影響してくるのですが、赤城さんがどうなったかやどうやって梓川咲太がそれらを解決したかを含めて詳細は当該書籍を読んでいただきたいのですが、起きてしまったことが赤城さんを含めてその空気を共有してしまったすべての人間に影響を及ぼすことにそっと触れています。

話はいつものように素っ飛びます。

五輪・パラリンピックの開会式を担当する作曲家の一連の騒動を眺めてて、もちろん辞任は相当だと感じていたのですが(解任ではないところに全世界に対して誤ったメッセージを送ってしまった気がしないでもないのだけど)、その問題行為を実行し、告白し、経緯が出版されたことに関して、そしてそれを問題と認識しなかった空気≒是認していた空気というようなものを報道を読みながらうっすら考えてました。もちろん本人が行為に関しての一番の責を負うのは確かですが、しかしこれ、本人や関係者だけの問題なんだろうか?的な。もっとも本人も出版社も声明を出してて、問題を認識しだしたことも・問題を無かったことにしなかっただけでも救いがないわけでもないです。

ただ、問題行為を問題として認識しない空気が当時あったであろうことは確かでそれがどういうふうに形成されたかを含め、やはり怖いな、と思っちまいました。問題行為をした人は学校も違うし年代はわたしよりいくらか上ですが90年代に高校大学だったので妙に引っかかりを覚え、私は偶然そちらに行かなかっただけかもしれなくて・その空気に直面しなかっただけかもしれなくて、もしかしたら(赤城さんほどではないにせよ妙な正義感があるのでおそらく行為そのものはしないとは思うものの)問題を問題と認識しないその場の空気に加担していた可能性もあったわけで。おのれに関係ないことなのだけど、しばらくボールペンの先でビー玉をつつくように報道を眺めててあちこちへ思考が転がっていました。

さきほどから「空気」というあいまいな言葉を書いています。これ、読んでいた上記のラノベの影響で・赤城さんの影響で、そんなもの可視化できず存在があるかどうか不確かなもので、そもそもフィクションを基に事実を眺めるのはたぶん愚の骨頂かもしれません。でもなんだろ、フィクションって、それをきっかけに、あれこれ考えるヒントを与えてくれることってないっすかね、ないかもですが。ヒントを貰ってもたいしたことは書けないのですが。