去年の今頃からずっと引きずっている青ブタのいまのところの最新刊です(来月新刊が出る)。
いくらかのネタバレをお許しください。(その経緯は「おるすばん妹」に詳しいのですが)主人公の梓川咲太と妹の梓川花楓の母は精神系の疾患でずっと入院していました。本作ではその母親の病状が快方に向かうものの気が付くと咲太は母親を筆頭に誰からも認識されなくなりはじめます。唯一、恋人の桜島先輩の子供時代にそっくりのランドセルガールだけは認識していて、咲太はランドセルガールに導かれるまま並行世界に行き、その世界は母親も病気にならず恋人もかわいい後輩もなんでも相談できる友人も居るきわめて居心地の良い世界です。そのきわめて居心地の良い世界にたどり着いた咲太がどうするか・どうやって事態を解決するかや、なぜ認識されなくなったの詳細や、また作品内で起こっている量子力学的解釈などは本作をお読みいただくとして、もう少しだけネタバレを書くと、これまで同様、やはり自力で解決しようとしますし、その姿勢に好感が持てました。
超個人的なことを書くと死んだ母は髄膜にがんが転移してから一時的に記憶が怪しくなりまして、子である私のことを子であると認識できない状況に陥っています。生きてる間に一時的に母子関係を喪失してしまったわけで、その経験から記憶が人を人たらしめ親が親たらしめて、その反応が子が子たらしめるところがあるのではないかと思ってるのですが、母親から子として認識されなくなったことを明確に突き付けられた(≒母親の中におのれの記憶がないことに気が付いた)直後の咲太について、「言葉がなかった」ではなく「言葉は無かった(p146)」という描写や感情がなくなったという描写は、些細なことなのですが似た経験を持つのでひどく腑に落ちてました。
本作の伏流水のようなテーマの一つが「子と母との関係」もしくは「子と親の関係」です。咲太はもちろんのこと、桜島先輩や友人の双葉理央の「子と母の関係」「子と親の関係」にも触れられています。もちろん(母の不在があたりまえになった状況でどうすればいいのかわからない)咲太もそのことについて考えます。きわめて印象深いのは双葉理央とそのお母さんの関係です。理央ちゃんのお母さん、といったように子が産まれ母になることによって本名で呼ばれず子が生活の中心になりやすいのですが、双葉理央の母はそれを拒絶して文中の双葉の言葉でいえば「自分のやりたいことをあきらめなかった」のですが、双葉は友人の存在を得てその母の生き方を受容してることを告白してます。暗に解がひとつではないことを読んでるこちらも悟ります。また作中、咲太は妹の花嵐が母に面会するにあたり、花嵐に関して親身になってくれた友部さんというカウンセラーに相談します。友部さんは咲太に母のことを訊くのですが、あんまり深くは答えられません。私もそれぞれの親の葬式で若いころの話を聞かされたので、子が親についてそれほど知らないことについてさらっと描写してあるのですが、身に覚えがないわけでもなかったり。
内容が比較的濃い一冊でした。なお本作にでてくる「ランドセルガール」の正体が何なのかは本作では明らかにされていません。次作への伏線なのかもなのですが予想がつかず、月並みなことを云うと来月の新刊がちょっとだけ待ち遠しかったりします。
最後にほんとにくだらないことを書きます。作中、藤沢から小机へ行く途中、横浜駅で咲太と花嵐の兄妹はビーカーに入ってるプリンを母親への土産として買います。もともとは葉山か逗子の店、という記述なのですが「あれ、そんな店あったっけか?」と思いつつ本筋には関係ないしどうせ嫌いなプリンだし、と割り切って読み進めていました。読み終わった後に検索すると確かに葉山や逗子にマーロウという店がありました。よく知る茅ヶ崎駅にもあるのも知ったのですが、見てるはずなのですがプリンが苦手ゆえに存在をまったく認識してなかったようで。見ることに関して物理現象より脳の主観の影響が大きいってのは本作ではないもののこれまで読んできた青ブタででてきたのですが、なんだかちょっと頷いてしまったり。