Frère Jacques

くだらないことを書きます(いつもくだらないことばかりですが)。

十五夜お月さん」と「うさぎ」に関する童謡があります。私はあれを長いこと「うさぎうさぎなにみて帰る十五夜お月さん見て帰る」と歌っていました。十五夜の月を見て望郷の念に駆られてうさぎが月に帰る物語があって、そのダイジェストだと解釈していたのです。「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」という短歌があるのを知ってからは、月というのは眺めれば望郷の念に募らせるものである、と(いまから思えばかなり勝手な)解釈をプラスして、「十五夜お月さん見て帰る」はおのれの中では揺るぎませんでした。それが崩れたのは数年前、親御さんに連れられた見ず知らずの小さな女の子がバス停で「うさぎうさぎなにみて跳ねる」と歌ってて、もしかして?と疑うようになって、あとで検索して「月を見て望郷の念を抱くうさぎ説」はおのれの勝手な創作であることを理解しました。咄嗟に「人前で歌わなくてよかった」って安堵したのですがそれはさておき。

幼稚園や保育園はもしかしたらもう春休みなのかもしれません。でもって昼休みに郵便局まで行く途中、信号待ちのときに親御さんに連れられた見ず知らずの小さな女の子が「しーずーかーなーかーねーのーねーまーちーのーそーらーにー」のフレーリージャックの曲調で「グーチョキパーでグーチョキパーでなにつくろなにつくろ」と歌ってて、月見て帰るうさぎ説創作者としては、おれ以上に創作能力のある子だなあ、と思ってほほえましく眺めていました。しかし郵便局から帰る途中、月見て帰るうさぎが心に巣食っていたのでふと不安になって念のため女の子が歌ってた歌詞をスマホで検索すると、どうもフレーリージャックは「グーチョキパーでグーチョキパーでなにつくろなにつくろ」ということになってるようで、女の子は私のようにあいまいな耳コピを基にした勝手な創作をせず、教えられたとおりに歌ってるまじめな子であることが判明しました。でもフレーリージャックの「夢のように高く低くディンドンダンディンドンダン」の響きが好きで覚え、実際にニコライ堂の鐘の音を聴いて「ほんとだ」と思ってたほうからすると、グーチョキパーでは情緒がないじゃないか、と思わないでもなかったり。もっともおのれを顧みると情緒がある曲を聴いて育ったってたいしたヤツにはなれないのですが。