苺のショートケーキ

私が求めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば、今私があなたに向かって苺のショートケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて
「はい、苺のショートケーキだよ」
ってさしだすでしょ、すると私は
「ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ」
って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの
村上春樹著「ノルウェイの森講談社(1987)より

この台詞は「ミドリ」という女の子が「僕」にむかって言います。さらに続きがあって
「私は相手の男の人にこう言ってほしいのよ。わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のショート・ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレート・ムース、それともチーズ・ケーキ?」
はじめて読んだときはここらへんで挫折しました。このミドリという女の子が苦手だからです。


「誰も理解してくれないけど・・・ある種の人々にとって愛というのはすごくささやかな、あるいは下らないところから始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ」といいます。もちろん「私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの」って抗弁しますし主人公である「僕」に放っておかれたりしても、愛を注ごうとしてるのはミドリの方なんすけども。唖然とするようなわがままを言ってそれを飛び越えて来て欲しいんすけど基本は「でも私、淋しいのよ。ものすごく淋しいの」ってなことを云うような女の子です。
で、私がこのエピソードに抵抗があるのは「こういうふうになりたくないな」ってのがあるからです。わがままを制御するのが当たり前っておもってるところがあって、それが野放図になってるのが苦手なんすよ。もっといえば「こういうふうにならなくてよかったな」ってのがあります。「こんなふうにならなくてよかったな」という心情をつきつめると、相手が「ミドリの要求するような完全なわがまま」すらすべて受け容れてくれるような、飛び越えて来てくれるような状況に憧れてるところが無いとはいえません。かろうじてその憧れを封じてるのは「大人だから」「男だから」っていう自制心です。


たぶん村上春樹という人が苺のショートケーキで封印すらとかして明らかにしてくれた光の先は、「わがままを飛び越えてきてくれる相手を欲しい」っていう子供っぽい、どろどろした私の闇なんすが。こんなふうに村上春樹という人は容赦なく光をさしてくるので、自らの闇を直視したくないから、私は村上作品に苦手意識が拭えないのかも。