厄介な世界

千葉に市川市というところがあって、そこは輪番停電時にしっかり停電になってました。市川市内には総合病院がいくつかあるのですが、そのうちの一つもきちんと停電してました。病院が停電するってことは、病院の機能がストップすることです。停電中は自家発電に頼って緊急用の電源は動いて生命維持装置関連は稼働してましたけど、検査機器等はアウトです。MRIとかはダメ。手術や通常診療もお休みです。停電に即して人の身体の病状が止まればいいのですが、そういうわけにもいかないので急がなきゃならないときは紹介状を書いて対応です。市川以外のところもたぶん似たようなものであったと推測します。
それを横目に見ながら、地震のあとに地震が多いから原発を止めるべきなんではなかろうか、っていう意見があってそれにwebでもそれ以外でも賛意がけっこうあって、そんなことをしたらあちこちで病院機能がマヒする!ってマジに思ったのだけど、ものごとは急にそっちのほうへいってて実際に浜岡はとまりました。不安定な電力事情は東電管内だけではなく、中電も怪しくなりはじめ、さらに原発依存度が高い関電管内も怪しくなりつつあります。電力が不安定になるってことは工場の稼働率が下がるし病院が万一の時に普段どうりに機能しなくなりますし、電圧さがったら電車の定時運行も厳しいし半導体工場は不良品生産工場になります。働いてる身からすると電圧がさがることも電力が不安定になることも絶対避けてほしいことなんで、危険なら原発を止めるのはわからんでもないけど、対策取れてない今すぐは困る、と思ってます。いまでも「そんな急いであちこちの原発を止めなきゃいけないの?」っていう意識はあるんすけど今月に入ってからはの東京では反原発のデモが複数あったらしくて、それはいまの流れでは私のような考え方は多数・正当ではないのかなあ、なんてことをすこし考えてました。


考えてた矢先に、作家の村上春樹さんがスペイン・カタルーニャで夢想家として断りをいれつつ日本人独特の【無常】の概念をいれつつ演説してて、毎日には文章が載ってました。で、効率優先の社会を批判し、原子力がないほうが、っていうのですが、うーんと唸っちまうのです。じゃあ、効率・コストを考えないで、生産したものは果たして競争力を持ち得るのか、っていうとどうなんだろう。油田のパイプとかエンジン部品とか乾いたぞうきんを絞るような努力で作ってるものが国際競争力をもってるんすが、原子力無きあとコストアップした電気代を製品に転嫁して、なお外国製品と戦えるんすかね。効率優先≒悪であるなら、その中で育ってきた人間の戯言になっちまうので、正論の前には無力だよなあ、と思いつつ、すごくもやもやするのですが。
村上さんの演説は非の打ちどころのない美文なので、読んでるうちにああそうだよなー、と思っちまうことが多いっす。たぶん村上さんの文章を読んだ人の多くは、脱原発になんとなく納得しちまうだろうな、と思います。私は頭が弱いので、もやもやしつつもなんとなく納得してる部分がないわけでもなかったりします。



世の中こうあるべきという特定の理想があって、そのバックボーンがいままでは効率優先社会であって、それじゃまずいんじゃないの?とカタルーニャで警鐘を鳴らしたのが村上さんで、ああそうかーなどと夢想家である村上さんの考えに触れてあれこれ考えちまってる点で、世の中に文学者って必要なんだなあ(と同時に実現可能性に触れずに語って夢想家と自称してクリアしてるところがずるいよな)、と思わされたんすが、それは兎も角、いまほんと厄介なんだなあ、っていう認識を新たにしてます。


でもって、こんなふうに慣れないおおそれたことを考えると、荷が重いのか私の場合は肩がこります。