選択のこと

目の前に選択肢があって、それがアイスを選ぶときのバニラかミントチョコかでも良いのですが、無難なバニラを選択すると「ミントチョコのほうが良かったんじゃないの」という「ある選択をしなかったことに関しての損してるかもしれないという後悔」を意識しやすくなります。
これがアイスじゃなくて、もっと重いものでも同じです。いずれ問題が起きそうなことを、波風立てずに見て見ぬふりをして先送りしてその職位の無難に全うするか、返り血を浴びるのは覚悟のうえで波風が立つのを承知でおのれの手で処理しちまうか、という選択のとき、万端の準備をして後者を選択しました。あまり考えないようにはしていましたが、「無難なほうが楽だったかも」ということをまったく考えなかったわけではありません。おそらく選択に関して「損してるかもしれない意識」はぜったいなくならないはずです。先のことが見通せれば話は別ですが、未来のことなんてまず霧がかかっててそんなに簡単に見通せません。霧のかかった状況を前にして選択したほうが良いことの証明はしにくいですしまた選択しなかったほうの選択肢を仮に選択してからといってうまくいく保証は必ずしもあるわけでなく、どっちにころんでも精神の安寧が訪れることはあまりあるわけではありません。それでも無難な選択へ行かなかったのは社内についてきてくれた人がいたことと、「あのとき○○してれば」という後悔より失敗した後悔のほうがマシ、というのがあったからです。霧が晴れてある選択した結果が必ずしも理想でなかったとしても、失敗して見通しが甘かったことを恥じても資料と「挑戦した」という経験だけは残せると踏んだからです。でもって紆余曲折あって見通しが甘かったことを恥じることをせずに済んだのですけど。
はてな今週のお題が選択と年齢です。紹介文に「選択と年齢はときにセットで迫ってくることがあります」なんて書いているのですが、繰り返しますが選択が迫ってくるのは「架空の損してるかも意識」などの「選択しなかった選択肢にまつわる後悔」です。もし年齢が関係するとしたら「建て前として経験を積んでいるはずだから失敗はすべきではない」という目に見えない重圧が年齢とともにあり「選択肢を間違って失敗するのがはずかしい」ってのはあります。でも霧の中で先が見通せないのと同じで、どっちがベターかなんて、そう簡単にはわかりません。考えたくなりますが、考えてもあまり意味がありません。あとはどうやって納得するかで、わたしは「後悔が少なめなほう」っていう物差しで判断して来ちまってます。