言葉のたらないのない国(16日追記)

前にも書いたかもしれないのですが、「春はあけぼのようようしろくなりゆくやまぎわ」っていうのを10代の頃に古典でやりました。このことを考えると頭がいつも頭がじわじわとマヒしてくるのですが、そもそもなんで「春はあけぼの」なの?っていう疑問が昔からあります。良いとするものに関して状況描写を書いてはいるのだけど「春はあけぼのようようしろくなりゆくやまぎわ」がなぜ良いと思うか、というのは書いてありません。正直、東側に山がほとんど無いいわゆる武蔵野在住の人間にはぴんとこない話で・知ってるとしても中央線から眺めることができた秋葉原ヤマギワくらいしかしらないのでよくわからない話で断定されても困るよなあと思いつつ、しかし覚えないと点数になりませんから「ああともかくこの人は朝陽があがる山のきわが良い、といっっているんだな」と理解してそれで試験対策としては終わりにしていました。でもなんで「春はあけぼの」なの、どうしてなの、というちいさな疑問はいまだに解決されません。
断定して「良い」とする状況を示しつつも「なぜそれが良いか」というのを書いていないのは読む人が同質性をもっていて云わなくてもわかることを前提にしてるか理屈がないかです。可能性のひとつとして筆者と私は性別が違うので、同質性はありませんから、云ってることが判らない可能性もあります。もう一つの可能性として、「私はこれは良い」という以上の理屈がなかったら「なんで春はあけぼのなの?」という問いはあんまり意味はありません。意味がないことを考えて頭がマヒした、という経験があるので日本文学はちょっと縁遠いものであったりします。もちろん中学とか高校のときにそんなことを考えていたわけではありません。つい最近、なんかこの手の「断定があって、断定ゆえに説明がない」のってけっこうあるよなあ、気がついたのです。
私は日本語を主たる言語として生きていますが、なんだろ、同質性を要求しつつ、「春はあけぼの」の時代から「良い」ということに関しては言い切るだけで、なんとなく日本語は・日本人は、言葉が足らないのではないか、と思っていたりします。わからないのは文学を理解できないてめえだけで、それがなんの問題があるのか、といわれるとぐうの音も出ないのですが。
ぐう。