「日本人でよかった」の気持ち悪さ

私が育った町は昭和の終わりくらいまで不発弾の処理というのがありました。戦前、飛行機会社があった影響で空襲がなんべんもあり、不発弾が工事の最中に見つかることがあったのです。たいてい処理の日は週末で指定された場所に避難してその間に自衛隊の方やってきて処理をしてゆくのです。空襲でやられた町であったせいか冗談抜きで君が代というのはちゃんと教わっていません。君が代の「いわおとなりてこけのむすまで」という歌詞をきいたとき「岩音鳴りて苔の蒸すまで」ってどういうことなんだろう、とながいこと思っていました。日の丸を掲げていた記憶があるのは近くの出雲系の神社が祝日に掲げていたくらいだった気が。
そういう環境に育つと「私日本人でよかった」「誇りを胸に日の丸を掲げよう」っていう神社本庁のポスターが最近あるのですが、「日本人でよかった」ことが「日の丸を掲げる」ことになぜつながるのかいまいちぴんときません。こんなことかいたら世が世なら非国民め!って云われちまいそうですがっててめえの非国民性はともかく。おそらく「日本人でよかった」ら「日の丸を掲げる」べきであるという断定から来る結論があって、その結論は断定から来てるので揺るがないので、理屈ではないのかもなんすけど。ここらへん、いわゆる愛国教育とよばれるものを一切受けてこなかったので、わたしのような特殊な環境下で育ったやつだけが判らない可能性もあるのですが。
でもって「私日本人でよかった」というポスターを見たとき咄嗟に「なにが言いたいのかわからない気持ち悪さ」を感じました。暗に日本と日本以外を比較して間接的に価値判断をし、何がどういうふうに良いかというのを明示しないでいるので、文章の解釈は読むほうに任されていて、しかし正解があるわけでもないわけで、とても落ち着かず気持ち悪いのです。「ずんだ餅が美味しい!こんな美味しいものがあるから私日本人でよかった!」ならまだわかるのですがそれをしないで「良かった」っていってる時点で、わけわかめであったり。
なんだろ、世の中どんどん言葉を尽くさない方向へより動きつつあるのかなあと愚考してるのですが、ただでさえ言葉が不自由なほうからするとちょっとしんどかったり。