切実な疑問

物語としての忠臣蔵をいちばん最初に触れたのは亡くなった勘三郎丈主演の大河ドラマです(当時は勘九郎だったはず)。増上寺の畳替えで赤穂以外の藩は畳替えをしてるのに赤穂の範囲だけは積極的に吉良上野介は指示をしなかったりであるとかエピソードは幾つかあるのですが、最後には浅野内匠頭の堪忍の緒が切れて吉良に松の廊下で切りかかり、しかし浅野内匠頭だけが処罰され吉良は生き残り、それを大石らが討つわけですがってあえて説明するほどでもない有名な話です。その後歌舞伎などをチラ見するようになってから(実は7月に御浜御殿があるのですが)歌舞伎はもちろんのこと映画や演劇、ドラマなどでなぜ忠臣蔵はずっと演じられ続けてるのだろう、ということが気になるようになりました。吉良上野介は暴力をいっさい振るっていません。それを暴力でなんとかしてしまう話なのでいまの世の中で同じことが起きたら赤穂勢だけが悪者になってしまうはずのものです。でも赤穂勢に人気があるのはなぜか。なんとなくの推測はできていて、「いかすけないやつ」がいて、その「いかすけないやつ」が最後にはちゃんと成敗される話だからだろうか、と思っています。もちろん「いかすけないやつ」であろうとなんであろうと暴力を振るうことはよくないことで、大石ら赤穂浪士切腹しています。実際に「いかすけないやつ」がいたとしても殴るわけにはいきません。そんな世の中だからこそフィクションとして「いかすけないやつが成敗される」忠臣蔵があって、「ほんとはこうあるべきなんだ」という溜飲が下がる疑似体験ができるので、江戸明治大正昭和平成とずっと衰えぬ根強い人気につながってるのかもなんすけど。
忠臣蔵に限らず人の言葉や行動というのは発言者や行為者の意図とは違うところで腹がたったり結果として暴力を引き起こしかねないことはあったりします。個人的にも言動などに腹がたったりすることがあったりしますがっててめえのことはともかく。言葉で腹が立ってしまう世の中だからこそ、「腹の立つやつ」が居たとしても斬ることが許されないからこそ、ほんとは忠臣蔵に限らずフィクションって重要なのではないか、と思うのです。
さて、忠臣蔵とは全く関係ないのですが、「うまいこといったもんが勝ち」というふうにwebに限らず言葉ってなりがちなんじゃないの、っていう疑念がずっとあります。わたしは「うまいこという」ことができないし、日本語が不自由かもしれないとおもうことがけっこうあります。そこでとてもくだらないことなんだけど切実な疑問として、話が通じそうにないときとか、対話が出来そうにないとき、もちろん暴力を振るうことが好ましくないとわかってるとき、どうやって腹立つことを処理すればいいんだろう、と余計なことを考えちまうのです。忠臣蔵に話を戻せば浅野内匠頭の立場になったとして吉良を斬らないとしたら、どうすべきだったのか。私は当座のよすがとしてその対象からなるべく距離を置く、ということをします。忠臣蔵のようなフィクションに頼るようなこともするんだけど、もしかしたらそれはなんの解決にもならないし逃げなんだろうかと思わないでもなかったり。ずるくても正しくなくても死ぬわけじゃないし、というのがあるのでそういうふうに動いちまうのですが。